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久しぶりに、『「少年A」この子を生んで・・・』(少年Aの父母著・文藝春秋刊)を読んでいる。
僕が生まれた昭和57年生まれの世代は、これまでに社会で多くの物議を醸してきた世代で、「キレる17歳」と言われた世代だ。数々の少年犯罪と少年法の是非がニュースに取り上げられたが、その発端は、神戸連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇聖斗だったように思う。
警察やマスコミ宛に送られた犯行声明文などから、大人による犯罪だろうと思われていたこの事件が、14歳の少年逮捕という急展開を見せた時、世間は「まさか」の一言だった。この事件のインパクトは凄まじく、少年逮捕の後、クラスの担任教師がホームルームの時間に「犯人が君たちと同じ歳だった」と言って、驚いていた様子を覚えている。
その後、少年たちによる事件が相次ぎ、西鉄バスジャック事件、豊川市主婦殺人事件の犯人もやはり同世代の青年による犯行であった。同時期の黒磯教師殺人事件の犯人も同じような年頃である。社会はこの世代を指して「キレる17歳」と名付け、キレるという言葉は一時期社会現象になり、あの頃、僕らは中高生というだけで、何か社会から乖離した奇妙な存在のように見られたものだった。犯人たちの多くが「普段はおとなしい子」であったために、「真面目でおとなしい子ほど、何をするか分からない」などと大人たちは好き勝手に言っていた。
しかし、この世代が問題なのは、10代に限ったことではない。
2008年に起きた土浦連続殺傷事件、それから秋葉原の通り魔事件、これも犯人は同世代であった。酒鬼薔薇聖斗と同じ年齢である。この世代的な関連性は、「理由なき犯罪世代」としてニュースでも問題になった。10代だとか、少年だとかいったメガネをはずし、世代という一連性の流れの中で見た時、問題が“少年”にあるのではなく、この世代特有の“感情”にあったのではないかということに世間は気づいたのだった。
実は神戸連続殺傷事件が起こった時に、全国の中学校でこのようなアンケートが採られている。
「あなたは神戸連続殺傷事件をどのように思いますか?」
そのアンケート結果で、当時の中学生たちのある恐るべき実態が浮き彫りになった。というのも、そのアンケートに答えた中学生のうち、実に過半数以上の生徒が「犯人である酒鬼薔薇聖斗の気持ちが分かる」と答えたのだ。しかもその中には「もしかしたら、自分も同じようなことをしていたかもしれない」と答えた生徒が多く含まれていたという。
心の闇、と言えば簡単すぎるような気もする。ただ、自分たちの世代は、おそらくそれまでの世代と違い、何か心に欠如した部分がある世代だった。その欠如したものとは何だったのだろうか。
上に挙げた事件の犯人たちに、共通点は多い。どの事件の犯人も、なんとなく印象が似ている。その一つを挙げろと言われれば、“虚無的”というキーワードを挙げる。犯人たちの頭の中の、現実離れした虚構の世界。実はこれ、犯人たちだけの共通点ではなく、そのままこの世代の共通点なのではないだろうか。
酒鬼薔薇聖斗が犯行声明文の中に書いている。
『今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである』(『「少年A」この子を生んで・・・』より)
秋葉原通り魔事件の犯人が言っている。
「生活に疲れた。世の中が嫌になった。人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」(wikipedia「秋葉原通り魔事件」より)
先年、草食系男子という言葉が流行語になった。
草食系男子、というのも、大体この世代から当てはまる言葉だろう。この世代から段々と男がおとなしくなっていった。肉食的にガツガツするのではなく、分別をわきまえた、社会的に「いい子」になろうとしてきた。そう考えると、この言葉って怖くないだろうか。草食系男子=虚無的男子の様な気がしてしまうのは自分だけだろうか。
世代的な感情は終わっていない。社会は無反省にそれを流行語に仕立て騒ぎ立てるけれど、なんのことはない、全ては繋がった一本の線である。よく見てみると、似たようなキーワードがぽつぽつと落ちていて、なんとなく見ていると気づかないが、しっかり見てみると、不可解で恐ろしいものが多い。
上に挙げた酒鬼薔薇聖斗の犯行声明文はこう続く。
「それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐を忘れてはいない」(『「少年A」この子を生んで・・・』より)
この本、今読んでも衝撃であると同時に、忘れてはいけない事件だと痛切に思う。このような世代を生んだ、この国の過ちがどこであったかをしっかりと見つめるために、その都度、その都度、引き返して僕らは何度でも戻らねばならないのだろう。