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20130225

中国の大気汚染

【カテゴリ:日常】

最近、花粉症が出はじめた。
もうそんな季節かーと思い、職場で「花粉症の季節になりましたね」と先輩に話したら、先輩は「いや、それは花粉症じゃなくて、中国の大気汚染じゃないですか?」と言う。
なんやら近頃、中国の大気汚染が風に乗って日本海をわたり、九州に被害を及ぼしてるという。
「長崎あたりでは結構観測されてるらしいですよ」
と言うので、
「そうなんですか」
と答えたものの、大気汚染でもクシャミや鼻水が出るものなんだろうか。よく分からない。それで
「中国って、環境とかあまり考えてなくないですか?」
という話になった。
北京五輪の時もそうだったけど、いつも中国は大気汚染に侵されている印象がある。何故なんだろう。と思ったが、よくよく考えてみれば、日本も過去にそういう公害を何度も繰り返してきたのであって、足尾鉱毒から水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病など、思えば日本も中国と同じようなことをしてきた。規模は違くても環境を汚染するという点では変わらない。
「歴史って繰り返すんですね」なんつったんだけど、例えば北朝鮮の将軍様を見ていると、昭和初期の天皇や統帥権を彷彿とさせるし、またそれは西洋の絶対王制の繰り返しかもしれない。とにかく、世界の人々というのは歴史の中で同じような過ちを繰り返し、同じように反省して、ここまで来た。
人間が1000年生きられたら、と考えたことがある。1000年分の知識の集積は、より安定した社会をもたらしてくれるのではないか、と思ったのだ。けれど、どんな人でもたかだか100年しか生きられないから、知識というのはその度に一旦捨てられる。けれども、すべて捨てられるわけではなく、そのうちの何%かは後世への教育という形で受け継がれていく。教科書とかマニュアルというのは、その知識を簡易的にまとめた書物であって、これにより、これまでの人間が獲得した知識の大まかな部分、外郭を知ることが出来る。だが、それでもやはり失われていくものは多い。
過去にこんな失敗を繰り返した、ということが社会科の教科書には書かれている。だから、それを読んで自分は「その失敗をしたわけじゃないけど、その失敗をしたらこういうことが起きる」と学ぶ。
例えば、昔の人はどこでもタバコを吸った。汽車の中でも吸っていたらしい。何故そうしていたのかと言えば、その頃はまだタバコの煙による人体への被害ということがよく研究されていなかったからだろう。
今では公共の場でタバコは吸えない。それは過去におかした失敗から学んだ教育の賜だ。
ところが。
そのようにして失敗から学び、その成果を教育に取り入れて、社会へのアウトプットを図っていったところ、人間はどんどん無気力になっていってしまった。
それもそのはずで、彼らは生まれた時から失敗手帳のようなものを持たされ、多大な制約の中で生きていかねばならない。公園の遊具一つとっても、事故が起こるたびに改良を重ね、その改良品ばかりしか知らず、完成された社会ルールの中に生まれそこで育っていくのだから、いわゆる無菌状態の中で育つのであって、自分の失敗経験に基づく知識というのが希薄になる。と、どうなるかというと、マニュアルがないと生きていけない人間が増えるのであって、あかんわ、俺もそういう人間の一人だ。
自分がガキの時分に、よく祖母から怒られた。
「まったくお前は、痛い目見ないと分からねえんだから」
と、僕の危険な遊びを見かねた祖母はよく言っていた。
痛い目見ないと分からない!
これは結構重要なことだと思うのだ。社会はその優しさでもって各人に「こうすると痛い目見るからやめようね」と諭すのであって、従順な人々は「はい、やめます」とその言葉に従って、痛い目を見ずにきた。そのようにして社会性というのは確かに向上したのだけど、これを続けていった先に実は社会の崩壊があるんじゃないかという危惧がある。
人間は本当に自ら痛い目を見ることなしにして、反省出来るのだろうか。成長していくのだろうか。
中国がこの先、大気汚染による反省を自分たちの中に課し、そうやってどの国も失敗しないようになり、失敗したことのない世界が出来上がった時、それは永遠の安定をもたらすのだろうか。その時、世界は本当に一つになるのだろうか。
どうも、そんな気がしない。むしろ世界は分散し、極個人化の時代が来そうだ。
とするならば、さて、正しい世界ってなんなんだろう。
起こしてはいけない失敗はある。
ただ、失敗の繰り返しが、ある意味、社会の希望であるような、そんな気もする。

煙突


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