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現在自分が住まう町は、宮崎県北部の都農(つの)町というのどかな田舎町である。宮崎平野を擁する尾鈴山地と日向灘に挟まれた人口1万人強の町で、これといって有名なものはないが、尾鈴ブドウという葡萄の名産地として昔から知られ、町内にはワイナリー施設がある。
漁業、農業と並んでブランド宮崎牛を生産する畜産業も盛んで、不名誉なことに先日は口蹄疫の第1発見現場として、その町名が全国に知れ渡ることになった。おかげ様で、どうにかこの口蹄疫もおさまる気配にあり、やるのかやらないのか分からんと言われていた夏祭りも先日、無事に催され、自分はビーチサンダルを履いてフラフラと様子を見に行ってきたけど、神輿を担ぐ子供たちが元気そうだったので何よりである。
日向国一ノ宮といわれる都農神社が、この町に建立されたのは神功皇后の頃(3世紀初頭)といわれる。三韓征伐で朝鮮半島を攻める折、舟の守護神として、都農神社の祭神を祀り、社を建てたのが最初というが、神功皇后の存在ともども、真偽のほどは定かではない。
1578年に九州平定を急ぐ豊後国の大友宗麟と薩摩の島津義久による争い(耳川の戦い)によって、当時の社殿は社宝や古文書の類もろとも、ことごとく焼失してしまったため、正確な記述は残っていないという。
その後、徐々に力を失い、歴史の闇に消え入りそうであったこの神社が、地元藩主の庇護にあずかったのち、一躍有名になったのは明治のことである。明治維新による天皇家擁立の動きの一端として、都農神社が注目され始めたのだ。
昭和9年には、神武天皇御東遷2600年の記念事業として社域の拡張整備が行われた。いわゆる紀元節が叫ばれたころであろう。富国強兵をスローガンに掲げ、天皇を中心とする一丸国家作りのために白羽の矢が立ったのだ。その後、天皇の名のもとに日本が史上もっとも陰惨な争いに突入していくことを考えると、暗澹とした気分になる。
前回書いた神社の話で、初代天皇である神武天皇が東征の折に機運を祈ったと伝えられる神社が、この都農神社である。もっとも、上に書いたように社殿の建立は神功皇后の頃とされているのだから、それよりも以前、紀元前7世紀とされる神武天皇の時代に、一体どのような形で神社があったのかは全く分からない。
もしかしたら、ただ森のような場所で、御神木のようなものがあっただけの区域かもしれないし、これまた神武天皇の存在同様、そんな昔から神社があったなどというのは作り話なのかもしれない。とにかく、この都農神社の始まりは杳として知れていないのだ。
都農神社遠景。この林の奥に社殿があり、敷地内には本殿以外に6つの摂末社がある。
西側大鳥居と、昭和9年に建てられた神武天皇御東遷2600年の記念碑。
さて、宮崎から始まったとされる天皇家も、現在住まいする皇居は東京にあり、周りを国会や首相官邸や最高裁判所、また丸の内などのオフィス街として全国紙の新聞社や大手商社、都市銀行といった日本の中枢施設に囲まれている。この皇居というのは、そもそも江戸城の跡地であって、明治維新までは徳川家第15代将軍慶喜が居住していた。大政奉還によって慶喜が江戸城を去るまでは、歴代天皇は京都御所に住んでいたのだ。
京都御所は現在でも京都市内にあるが、その歴史は長く、創建は鎌倉時代といわれる。御所のあった平安京が完成したのが794年だから、明治維新までざっと1000年以上、天皇家は京都で暮らしてきたことになる。京都以前の天皇家は藤原京(奈良県橿原市)だったり、平城京(奈良県奈良市及び大和郡山市)だったり、難波京(大阪府大阪市)だったりと、その都を転々としている。
歴史をさかのぼっていくと、僕が学校で習った社会科と、記紀の記載が合致するのは、だいたいこの辺りまでのことであり、それ以前の記紀にある神武天皇の東征だとか、高千穂の天孫降臨だとか、神話的なこと、史実的な面から言えば、天皇家が何故、奈良に住み始めたのかまでは、学校では習っていない。何故、それを学校で教えないかというと、この時代のことというのは、実は学者でさえよく分かっていないからである。
その原因としては、前回述べた通りに、当時の日本について書かれた史書や資料の不足、宮内庁による古墳発掘の拒否などがあるのだが、それでも少ない情報の中で、社会科的、日本史的な話をすれば、天皇家が天皇家として表舞台に立ち、政治に関与しはじめるようになったのはヤマト政権の成立からだとされている。しかし、このヤマト政権がどのようないきさつで誕生したのか、まずもってそんなことすら現代の研究では明確になっていないのである。
これまでヤマト政権については、中国からの騎馬民族だという説や、土豪が勢力を拡大して朝廷を築いたという説、記紀でいう東征のような、九州の部族が大和(現在の奈良県)を攻め取ったという説など様々に言われてきた。が、どの説にしても、それを裏付ける確かな証拠がない。そこで話は、自然、ヤマト政権以前の日本の姿へと遡るわけだが、ここで登場してくるのが、御存じ、キングオブ歴史ミステリーの邪馬台国である。
日本がまだ倭国と呼ばれていた3世紀以前、国内では部族間、小国間による争いが絶えなかった。そんな中、一大勢力として各部族をまとめ上げ、従えさせてきたのが邪馬台国である。
この邪馬台国、面白いのは古来の日本の史書にその名が一度たりとも出てこないことである。かつて日本に邪馬台国という国(村)があった、ということが確認できるのは、中国に残された「三国志」という史書からだ。三国志の中に3世紀前半の倭国について書かれた記述があり、そこに邪馬台国という名前が登場するのである。この三国志の中の一エピソードとして語られる話を抽出して、日本では「魏志倭人伝」と云う。
魏志倭人伝によると、当時から邪馬台国には中国との国交があったことが記されており、倭国内に繁栄する各部族の情勢にまで話が及んでいる。例えば、「邪馬台国には女王がいて、その名を卑弥呼という」と書いているのも、この魏志倭人伝である。そんなわけで、実はこの辺りの日本史というのは、魏志倭人伝の影響が色濃い、というか一辺倒なのだが、その話の信憑性を裏付けるのが、福岡県の志賀島から出土した金印であったりと、国内での調査、研究と合致して、かつて日本に邪馬台国という国があったのは確実だろうと言われている。
しかし、ここでまた一つ問題があって、この問題こそが邪馬台国をキングオブ歴史ミステリーとしているのだけど、肝心の邪馬台国が日本のどこにあったのか、分かっていないのである。魏志倭人伝には、中国(朝鮮半島)から倭国、邪馬台国への行き方が記載されているのだが、これが結構適当に書かれた代物で、方角や距離の記述に不具合が多いのだ。測量法も確立していないであろう昔のことだから、それくらいは仕方ないのかもしれないが、これによって今現在も学会は大論争。主流2派は、邪馬台国が現在の奈良県にあったとする畿内説と、九州北部にあったとする九州説に分かれ、どちらも譲らず、まるで水と油のようなのである。
いったい・・一体、どっちなんやああ!?
ということで、次回は、この邪馬台国から時間を進めつつ、記紀と照らし合わせつつ、古代日本の成り立ちを探っていきたいなと思っている。それでは、また。