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20100322

阿呆の現像

3月21日。日曜日。お彼岸だそうで、寿司がよく売れる。ここら辺は田舎町にて、スーパーが2軒しかなく、私の働いているスーパーと、もう一つはAコープである。パートさんがよく、Aコープの総菜部がまたうちの商品をパクった、というような意味合いのことを話している。寿司部で出した新商品がよく真似されるらしい。田舎だからと言って、バカにしてはいけない。テリトリー争いは、どの町のスーパーでも熾烈だ。
仕事が終わり、帰ろうとしたら、一人のパートさんが100円をくれた。なんですか、これ?と聞くと、それでチョコバーを2本買いなさい、と言う。私がいつも仕事帰りにリスカ(注・会社名)のビッグチョコを買っているので、それを知っているパートさんが、これで買って帰りなさい、と呉れたのだ。別に何か理由があったわけでもないらしいが、おごってあげると言うので頂いた。ビッグチョコを2本買って、帰る。
最近、デジカメについて思うことがある。デジカメの普及率は凄まじい。先日、大人6名で集合写真を撮るときに、カメラマンに集まったカメラの数、4つ。カメラはすでに一人一台の時代になった。今や、日本人はバッグの中にケータイとデジカメ、この二つを入れている人がかなりいる。デジタルカメラ。この商品が大きく伸びた要因は何だったろうか。ケータイには必ずカメラが付いているのに、ケータイとは別に、である。
そこで私は、この問題を考えるにあたり、まず辺りを見回してみた。自分を含め、身の回りでデジカメ所有者が、どのようにそれを使っているかを観察、考察してみることにした。すると、挙がってきたデジカメの使用法は大体以下の通りであった。
①気軽に撮影する。
②自分でそれを見る。
③他人にそれを見せる。
簡単に言ってこの3点だが、不思議なことに自分を含め、身の回りでデジカメで撮った写真を現像している人をほとんど見たことがないことに気づいた。かつてカメラと言えば、撮影→現像、というセオリーは不動のものだった。しかし、現代にいたって現像という工程は、すでに意義を失いつつある。撮ったものを現像するいう意識が、デジカメにはあまり感じられない。
撮影した写真のデータ管理は、過去のフィルムとネガに比べれば、だいぶ楽になった。①は、そのことに大きく関係していよう。気軽に撮影する。これは一重にカメラがコンパクトになり、操作性が上がった、ということに尽きるだろう。電源のオンオフだけで撮影が出来、その場で確認、撮り直しがきくというのが、デジカメの最大の特徴だ。しかし、ケータイカメラとデジカメの相違点は何だろう。気軽に撮影という点では、ケータイカメラでも同じことが言える。撮影して、確認して、撮り直して、カードにデータを保存してと、これはケータイのカメラでも出来ることだ。決してデジカメに特化したことではない。確かに、ケータイよりデジカメの方が楽かもしれないし、性能や、撮影時の見た目の問題もあるのだろうが、それがわざわざケータイとデジカメを両所有する、デジカメの普及の決定打とは言えない気がするのだ。特にケータイを使い慣れた若年層において、そう言えるだろう。だが、デジカメの普及は老若男女に徹底している。
では②はというと、これもケータイで十分間に合うことであり、特にデジカメである必要もあまり感じない。
そこで注目したいのは、③だ。他人にそれを見せる。これが、どうも引っかかる。と言うのは、最近、街で家で、自分のデジカメを他人と見せ合う人々が急増している気がするのは私だけか。言葉で語るよりも、カメラを見せれば、それで最近の自分の生活を自然、カメラが語ってくれる。ところがケータイだと、これはあまり人に見せる余裕がない。自分で見る分にはいいが、ケータイは機種によって扱い方が違うし、本来の用件として常に待受状態にあり、また、多くの人は、他人にあまり見られたくないデータも入っているだろう。撮影時も含め、ケータイはあまり人に預けたくないものだ。その点において、デジカメは何ら問題はない。この③の事象がなす出来事を一言で説明するなら、デジカメの手軽なマイアルバム化、絵日記化であり、人との会話の切り口にもなる。そして、この要素は、何故ケータイのカメラでなく、デジカメなのかという点について、大きな理由の一つとなるものだと思われる。
デジカメが、ここまで普及したわけ。それは単純に、こうこうこうだから、というものでなく、様々な理由が組み合って発展していったものだろう。今日は簡単に自分の考察を述べただけだが、まだまだ自分が気づいていない複合的な要因があるだろうし、デジカメ大ヒットの裏を今後も探っていきたい。
以上が最近の私のデジカメ考察だ。で、ここに一つ大きな疑問が残っているのだけど、それを発表しようと思う。はて、私はデジカメを考察して、どうしようというのだろう。それが分からないのに、とりあえず考察ばかりしている。自己満足に終わらないよう、この考察を活用する道も、並行して探していきたい。

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20100617

妹の名前はミホ

6月14日。ようやくというか、ついにというか、読売新聞上にてコボちゃんが連載1万回を迎え、コボちゃんの妹が誕生した。

喜ばしいことである。ヒャッホー、ブラボー、誕生だあ!とついつい叫んでしまう、しまう、しまうよね。

で、この妹の名前なのだけど、紙上で4月末から読者に名前を募集した結果、ミホちゃんに決まったという。

まあ、肝心な当日の新聞を僕は見ていないのだけど、その詳細が読売新聞のHP上で発表されていたので、ちょっとここに引用させていただくと・・・

(4月末から5月に募集した名付け親募集にはインターネットとはがき合計で4万7070通(女4万2667通、男4380通、無効23通)の応募をいただき、ミホ(かな、漢字含め同音すべて)は二番目に多い3298通の推薦がありました。)

とある。この記事を読んで、みなさん何か気にならないだろうか。自分は驚いた。おでれーた。びっくりした。すわ。てのは応募数のうちに占める女性の割合の高さ。

総数4万7070通のうち、4万2667通が女性とある。

割合にして90%超ですよ。どうなんですか。え?気にならない?10人中9人が女性ですよ。気にならない?おらぁ、どうしてこんなに応募数に性別の開きがあるんだろうかと気になったけど・・。

いや、そりゃまあ、女性の方が家庭に入っている方が多いだろうから、こういう応募、懸賞の類は女性の方が多いかもしれない。しかしだよ。ええ?なんだろうか、この対比は。

女性の方が新聞読者が多いってこと?それとも、男はこういったカテゴリーに関して興味が薄いってことだろうか。

仮に、妹でなく弟であったらどうだったろうか。少しは男の応募も増えただろうか。また、同じことがアメリカであったら、どのようなパーセンテージになったろうか。そんなことを考えた。

それで、応募があった名前のベスト10は以下の通り。

コボちゃん ランキング
1位はミノリであったが、妹の名前は2位のミホに決定している。ミホ、カホ、イナホ、ホノカ、ホナミ、とホがつく名前が多いのは、母親である早苗の名と、兄となるコボの名に因んだものだろう。(コボを漢字で書くと小穂であり、ミホは実穂という漢字に決定した)

「コボ」というのは、作者の植田まさしさんの幼いころのあだ名に由来するそうだが、このランキングに対して植田さんは「漫画家の僕が考えたら、もっととっぴな名前になっていたかな」とコメントしている。

確かに、このランキングには、あまりインパクトを感じる名前がない。

挙げるなら、3位のコムギが今風なのかなと思って見ていたのだが、実際に最近の女の子の名前ってどういうものが多いのか気になったので、調べてみた。

以下、「たまひよ」が行っている新生児の名前ランキング2009女の子ベスト10。

2009 名前ランキング

この二つのランキングを見比べてみると面白い。何が面白いって、全くカブっていないのが面白い。2010年6月14日生まれの女の子に対し、公募して送られてきた名前が一つも流行をいっていない。

これはつまり、コボちゃんの世界観が時代を反映していないと言える。何故だろうか?漫画だからだろうか?

何故、コボちゃんの妹の名前ベスト1がミノリで、凛ではないのだろう。何故、現実に人気のある名前が、応募されてきた名前上位10位の中に一つも入っていないのだろう。

え?別に気にならない?僕はすっごく気になるんだよね。何故なんですか?この意識の差はどこから生まれてくるんですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

とまあ、振り返ってみれば実はそんな世の名に対するナゼナゼてな疑問って数々あって、そのほとんどはくだらないことばかりなのかもしれないけど、ほら、もしかしたらそういうくだらないことを通して、予想だにしなかったスケルトンな社会観というものを垣間見ることが出来るかもしれず、はーん、これはどうも面白そうだ。

阿呆シリーズを書いているうちに、住み分けしてそんなことをちょこちょこ書きたくなった。いろんな物事をいろんな方面からのデータでズバズバ斬っていけたらな、そんな思いで今後は考察シリーズをブログに加えて書き始めることにしたので、みなさん、よろしく。

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20100726

3Pと高校生

知り合いの高校生の女の子が、こんなことを話していた。
「私のクラスに3Pしたことがあるって子が何人かいるんだよ」
学校でクラスメイトの子に「昨日、3Pしたんだ」と話を振られたらしい。他にも、そういう子が何人かいるそうなのだが、「別に不良というわけではなく、普通の、まあ一般的な雰囲気の子なんだよ」と言う。
それを聞いて自分は衝撃を受け、これはどういうことなんだろう、と思った。

女の子。3P。いいじゃねえか、めでてえじゃねえか、と言う人もあるかもしれない。3P。3人プレイ。いい。確かに華やかだ。見てみたい。しかし、そうもバカ面さげてニタニタしていられないというのは、かかる状況下である。高校生がクラスで昨日した3Pの話をしている。「ええ?今時の高校生ってそんな感じなの??」という単純な疑問が自分の中にあり、「しかし、そうか、確かに高校生にもなれば3Pは出来るんだな」という、ごく当然な事実に今さらながら気付いた自分は、衝撃を受けたのであった。つまり、高校生になれば、いやもしかしたら中学生でも、その気になれば3Pが可能な時代になっている、ということ。考えもしなかった。そういうものは、どこかアウトロー的な雰囲気の中で、もっと隠匿された大人の行いのように思っていたが、現実に高校生が3Pを楽しんじゃう時代が、自分の知らぬ間に到来していたのである。
まあ、自分の高校時代に当てはめてみれば、同級生に性の話題が尽きない子はいた。「昨日、援助交際をした」と宣言しながら、スカートに飛び散った白い染みを指差して「汚いわ~」とゲラゲラ笑っていた、隣のクラスの女の子。あの子はなぜ、そんなことをしていたんだろう。心のどこかに鬱があり、愛されたい欲求があり、ただ単純な興味本位があり、自慢したい気持ちなんてのもあったかも知れないなあ。本人に聞いてみなければ解からないが、おそらく本人に聞いてみても解からないんだろう。理由なんてないのかもしれないし、ただ単純に若気の至りというやつかもしれない。けれども、その子だって3Pをしたなんて話は聞かなかったし、時代の中でそういうポジションにいる女の子は、どんどん変化してきているのだな。簡単に言えば、セックスの裾野は広がっている。普通の高校生の女の子が3Pしちゃう時代、が来ているのだ。しつこく言うが。
例えば、現代の若い女の子はフェラに対して抵抗がないという。「セックスは駄目だけど口ならいいよ」という女の子が多いらしい。自分が実際に聞いた話では、あるフリーマーケットで二人組の女の子がやってきて、店主に「この服が欲しい」と言った。「それは1000円だ」と若い男の店主が答えると、「金がない」と二人組が言うので、冗談のつもりで「じゃあフェラしてくれたらいいよ」と男が言うと、女の子は「ホント?!ラッキー!」と言って、そのまま物陰でフェラをしたというのだ。二人組にとっては、見知らぬ男にフェラをすることが1000円よりも軽かった、ということになる。ビックリするね。これは極端な例かもしれないが、処女なのにフェラは経験している、という女の子も案外いると聞いたことがある。
と、まあ、3Pだのフェラだの、ノーマルなセックスでなく、こういう偏向、性癖が時代の中で目立ってきている、ということに一体どのような原因があるのだろうと考えていて、自分は「AVかな?」と思った。アダルトビデオの影響は大きい、とよく聞く。例えば、「顔射」というAV特有の演出がある。AVの中で、射精シーンにインパクトを持たせるため、男優が女優の顔面に向けて射精するという演出だ。これはもちろん芝居であり、これを食らった女優と言うのは、下手すりゃ目に入るわ、臭いわ、ベトベトするわ、髪に絡むわで、いいことなど一つもないのだが、そんなAVを見て、顔射というのはごく普通の射精方法だと勘違いしている男が多いのだと聞く。これはつまり、どういうことかと言うと、AVをセックスの教科書代わりにしている若者が相当数いるということである。そして、AVではより過激さを求めて、フェラだの3Pだのを当たり前にやるのだから、それを見た普通の高校生が真似をして、もしくは見習って、普通にフェラや3Pをやってしまう、というのはごく自然に考えられることである。以上のような流れがベースとなって、冒頭のようなことが現代の高校で起こっているのかもしれない、と自分は考えた。
では、ここからもっと掘り下げて考えてみるが、なぜ現代の若者はAVを教科書にするのだろう?
セックスと言うのは、本来相手のことを思いやってする行為であり、思いやればこそ、顔射なんてものは不自然で必要ないし、各々のやり方でいいものだ。手順だ、技術だと焦る必要もない。「子供を作る」という大義を除けば、セックスは全く持ってコミュニケーションの意味合いが大きいし、科学的に人間の健康と密接な関係を持っていることが指摘されている。ところが、このセックスの指導って、皆、どこで受けるんだろうか?保健体育が教えてくれるのは、体の構造的な部分に関することばかりであり、家庭内で親が子供にセックスの仕方なんて教えるだろうか?いや、やはり、その手の話を忌避してしまう雰囲気があるだろう。
そんな環境の中で何も知らない子供が成長し、性に芽生える。ところがその指導者たる人がいない。「え?セックスってどうやるの?」と答えを求めた結果、自然とAVに行き着く。ああ、セックスってこういうセオリーなのね。こういうことをするのね、と子供は納得する。
近年、「取り説」という言葉が流行った。取扱説明書の略語だが、色々と雑多なものが増え、マニュアルだらけの世の中だ。物事を自分で開拓し、発見し、その喜びを知るような機会は減った。あまりに物が増えすぎて、マニュアルなしでは生きてけない。それはきっと、セックスに関しても同じなのだろう。実は大人だってセックスの仕方なんて知らない。知らないからこそ、セックスレスも増える。セックスレスが増えれば、社会にストレスも溜まる。ストレスが溜まれば、その重みで何かが歪む。離婚が増え、不倫が文化になる。子供は何も考えず3Pをしてしまう。一方では潔癖とも言えるほどセックスを突き放し、一方では異常なほどにセックスに執着している。このギャップってすごいよね。正しい知識を教えてくれる人間の不在で、実は子供も大人もAVの真似ごとをしているのかもしれない。現代はきっとそんなマニュアル依存症の社会なのだろう。

余談だが、3Pの歴史は古い。カーマ・スートラや房中術といった、インド、中国の古代性典にも3Pは体位として立派に載っている。また、お釈迦様(ブッダ)も出家前は王族であったから普通にグループセックスはしていたし(ブッダが出家しようとしようと思い立ったのは、宴会の翌朝、周りで寝ていた裸の女たちのあられもない寝姿をみたことが最終的なきっかけだと言われている)、どの時代、どの場所でも3Pはあった。おそらく、3Pをする動物は人間だけだろう。何故、人間が3Pをするのかはよく分からないが、なくならないのだから何か意味があるのだろう。ただ、やっぱり冒頭のセリフってのは、自分はショックだった。胸が膨らんで、性に芽生え、男を魅了できるようになれば、そんなことはいくらでもする機会があるのかもしれない。20~30年前なら、「昨日、キスしちゃったんだよ」ってなノリが「昨日、3Pしちゃったんだよ」ということになっただけかもしれない。でも、やっぱり高校生であるならば、キスではしゃいでいるくらいであって欲しいなあ。セックスしたとしても、友達に話す時に恥じらいを持っているぐらいであって欲しいなあ。なんてなことを思う。けれど、それも所詮、時代遅れのおっさんの僻みみたいなもんなのかもしれないなあと思うと、結構凹んだり。いや、だけどね、キヨシローも言ってたよ。愛し合ってるかい?って。そこんとこ、やっぱり重要だと思うよ。ベイビー。も、この話を聞いてすぐ、詩、書いたもん自分。

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20100816

記紀探訪

現在の天皇は第125代である。
昭和天皇が崩御されて、時代は平成になった。今は亡き小渕元首相がテレビの中で「平成」と書かれた額縁を掲げ、平成おじさんと呼ばれるようになった平成元年。あれから、21年の年月が過ぎ、今上天皇は御年76歳になる。
天皇家の始まりは、初代・神武天皇とされている。時は紀元前7世紀、日向の国(ひむかのくに・現在の宮崎県周辺)でのこと。日本最古の史書である古事記・日本書紀、いわゆる記紀の記載によると、高天原(たかまがはら・たかまのはら)という神々の住む天上界から、ニニギノミコトという神が人間の住む下界へと降り立ち、その曾孫として神武天皇が誕生したとされている。こうして、天上人を先祖に持ちながら地上界に誕生した神武天皇は、日本の中心に都を造るべく東征の旅に出て、現在の奈良県に国を作った。それが今日の天皇家の最初である。
戦前まで天皇は神であるとされ、生きている神という意味の「現人神」という呼ばれ方をされたが、天皇は神であると語られることの所以はここにあり、天皇家のルーツを辿っていくと、自然、日本神話に行き着くことになる。
記紀ではその詳細が語られているわけで、この記紀を編纂するように命じたのが第40代天武天皇(在位期間673年~686年)であった。つまり、記紀の時系列は、天上界の神々による天地創造の時代から初代・神武天皇の即位(紀元前660年)を経て、第41代持統天皇(在位期間686年~697年)の時代まで続くわけで、ここには日本創生の神話と史実がごちゃまぜになって話が出来ている。
そこで、まず一つの疑問が浮かぶと思うのだが、率直に言って、天上界って何さ?ということである。昔の人間はどうだったのか知らないが、現代人がこんなことを聞いても、信じられるはずはない。まあ、みなさんお分かりの通り、天上界だとか下界だとか、天皇が神の子孫であるというのは作り話である。
人間は人間からしか生まれない。それは現代の常識であって、人間が人間以外の生物から生まれることはない。もし、神が人間を生んだのだとすれば、この世に存在する全ての親は、その子供たちにとって神ということになるが、そんなことにもならない。また、現代科学の見地から考えれば、人間を生んだ神とは猿(新人・旧人・原人・猿人)ということになり、その猿を生んだであろう単細胞生物、単細胞生物を生んだであろう海、果ては太陽エネルギー、宇宙エネルギーという結論に至るのであって、天皇が万世一系、神の子孫であるというのは無理のある話である。
そんな作り話が何故、公的な史書である記紀に記されたかというと、これは聖書もそうなのだろうけど、昔の人は一体自分たちがどこからやってきたのか分からないジレンマがあったのだと思う。史書を作るということは、これまでの歴史をまとめ、後世に伝えていくという意図があるわけで、しかし、あるところまでは資料により記録が残っていても、それ以前となると、とんと解らなくなる。
空白となってしまう、その過去の出来事は、今でこそダーウィンの進化論や発掘調査などに基づき、ある程度は推測されるようになったが、これを知らなかった昔の人々は、神という存在を作り上げるしかなかったのだろう。つまり皮肉な話だが、神が人間を作ったのではなく、人間が神を作ったのである。おかしな話だが、もしも猿人や原人が「今日、はじめて2本足で歩きました」「今日、はじめて火を使いました」ということを記録として残していたならば、人間は神なんて思い浮かべなかったのじゃないか、とすら自分は思うのだ。

しかし、「では翻って、記紀に書かれてあることは全て嘘なのか?」と言うと、それは違う。例えば、ニニギノミコトが降り立ったとされる日向の高千穂という場所は、現在、宮崎県高千穂町として存在しているし、天孫降臨と呼ばれるその降り立つ間際に、ニニギノミコトが天から持たされてきたという3種の神器(ヤタノカガミ、ヤサカニノマガタマ、アメノムラクモノツルギ)は、現在それぞれが、伊勢神宮、皇居、熱田神宮に奉られている。本物かどうかは分からないが、とにかく奉られている、という事実があるのだ。
「そんなバカな、だって神話だって言ったじゃないか、そんなものがあってたまるか、作り話なんだろ?」と仰る方もあろう。確かに神話は作り話である。神から人間が生まれたのではない、と先ほど述べた。だが、神話というのはなべて、何か別のものの暗喩となっている可能性が高い。つまり、作り話は作り話だが、そこには話のベースとなっている史実が隠されている可能性があるのだ。
桃太郎が退治した鬼は、当時、瀬戸内海に跳梁跋扈していた海賊の暗喩なんじゃないだろうか。浦島太郎が亀に乗せられて行った竜宮城は、漂流して辿りついた沖縄の暗喩で、首里城のことだったんじゃないだろうか。と密かに囁かれるのもそれで、語り継がれる話と言うのは、それなりに訳がある。リテラシーのない時代、歴史の伝承は、そのほとんどが口伝であった。口から耳へ、親から子へ、受け継がれてきた伝言ゲームが、神話や民話という形に変化していったと考えるのは、そう難いことではない。その蓄積が記紀の冒頭にある神話ではないか?と自分は考える。
そうだとすれば、ニニギノミコトの天孫降臨とは、何を指し示すものなのだろうか。神武天皇という存在は本当に在ったのだろうか。それとも誰か別の人物の暗喩なのだろうか。三種の神器とは、誰がつくり、誰が誰に、何のために渡したものなのだろう。様々な疑問が噴出する。
これらのことは調べようもなければ、確かめようもない。また、日本が天皇制であるという特性上、天皇家に不利益なことは事実が隠蔽されている可能性もある。実際、歴史が変わるかもしれない多くの古墳の発掘調査が宮内庁によって拒否されているし、もしかしたら天皇家には密かに、記紀以前の史書というのが在るかもしれない可能性だってあるのだ。
「歴史は勝者が作る」という言葉がある。自分に義があったか、相手に義があったか、結局決めるのは戦いの勝者だ。記紀の多くは、つくられた歴史、つまり勝者である天皇家が自身を正当化するために書きあげたストーリーなのかもしれない。しかし、どれだけ誰かが歴史を作っても、真実とは常に一つである。その真実を知りたいと自分は欲する。それを知ることが、同時に自分のルーツを知っていくことにもなるからである。

全く別の話になるが、アメリカ・フロリダ州で7000年前のものとされるミイラ化したヒトの脳組織が見つかった。時代的にアメリカインディアンのものとされ、学者はそこからDNAの抽出と塩基配列の決定に成功したのだが、現代のインディアンのDNAと比較調査したところ、同じ塩基配列を持つ人を見出せなかった。ところが研究を進めていくうちに、なんと5名の日本人が同じ塩基配列のDNAを持っていることを突き止めたのである。これは偶然では起こり得ないことで、共にかつて我々が同じ民族であったことが証明された。
どうして、このような結果になったかというと、1万年前か2万年前か、日本がまだユーラシア大陸と陸続きだった頃、同様にロシアとアラスカもベーリング海が陸続きになっており、現代の日本人や韓国人、中国人といった民族の祖先が歩いてアメリカ大陸まで渡ったものと考えられるのだ。
自分たちの祖先が、かつて歩いてアメリカ大陸まで渡っていた、という事実。これに自分は震える。そして、自分のルーツの壮大さを思う。人類が世界をどのように旅してきたか、そのスケールのでかさにロマンチックな感動をする。そして、自分が生まれてきた意味を考える。

記紀を考えるというのも、その手段の一つに過ぎない。別に、これを調べて天皇がどうだとか、右寄りや左寄りといった、そんな考えをするわけでもなく、ただ自分が納得できる真実が知りたいと思う。日本人がどこからやってきたのか。隼人やアイヌといった日本の先住民族は、いつから日本にいて、そしてどのように大和民族に追い詰められていったのか。日本語はどこから来たのか?自分の体の中に、一体どんな血が流れているのだろう。そうだ、もっと祖父や祖母のことを知っておきたい。そんな自然な好奇心である。

今回、たまたま宮崎に暮らしていることで、自分にとって日本神話が身近になった。神武天皇が東征に出る折、機運を祈ったと伝えられる神社が近所にあることを知り、カメラとメモ帳を持って、先日、その神社へと赴いた。いつから神社があるのか、どんな歴史を持っているのか、本当に神武天皇はここを訪れたのだろうか。一人で境内をこそこそと歩きながら、宮司さんともお話してきた。そこで今回、ちょっと記紀と天皇について自分なりに調べてみようと思い立ったわけである。もちろん、自分は研究者ではないので、素人考えで思い込みの激しい部分もあるのだが、まあ、どうせ答えのない歴史ミステリーみたいな話だ。ちょっと楽しんで、日本人である自分のルーツを追えたらと思っている。
というわけで今後だらだらと、このアダルトブログにその模様と推論をUPしていくつもりなので、その間、また別の話を挟んだりするとは思いますが、みなさん、お楽しみに。それではまた。

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20100901

ブームを考える

そうそう、ブームについてまだ書いておきたいのだけど、飲料ですよ。飲料。ね、飲み物にブームがあるんだけれど、では、今現在一体飲料業界でどんなブームが起こっているかというと、ZEROブームが起こっている。これは数年前にペプシコーラが、ペプシネックスという糖類・カロリー0の、人工甘味料を使用した商品を発売したことがきっかけで始まったと言われているのだけど、売れ行きが好調だったので、焦ったコカコーラがコカコーラZEROという商品を発売して後を追った。これがきっかけになって、それを追うようにサントリーやキリンといった大手飲料メーカーが参入し、ZERO戦争が勃発したわけである。
自分は元々、このZEROブームに疑問符を投げかけようと思って、前回のラー油の話を始めたのだけど、ラーラ―言っているうちに、この飲料の話題を忘れてしまったので、やっぱり阿呆やなあ、遅ればせながらちょっと書いておこうなんて思った次第。
まず、飲料ブームの流れをおさらいしてみると、ZEROブームの前には緑茶ブームがあった。これは1980年代の伊藤園「おーいお茶」発売に始まり、しばらくは弁当の脇役レベルの地味線だったのだけど、2000年代に入ってからどっかんと来て、生茶だ、伊右衛門だ、ハジメだ、濃い味だと各社からバンバン新商品が発売され、弁当がなくても、ウーロン茶、紅茶同様に売れるようになって、ついにはそれらを越してしまった。今現在は、落ち着いている。落ち着いている、というか緑茶の売り上げは落ちているだろう。すでに緑茶ブームは去ったのである。
で、緑茶ブームの前が何だったかというと、90年代にミネラルウォーターブームがあった。水がよく売れた時代があったのだ。各社、競うように軟水だ硬水だと発売したけれど、これもすでにブームが終わっている。ヤフーか何かのニュースで見たのだけど、ハウス食品がミネラルウォーターの工場を手放したそうである。ハウスと言ったらミネラルウォーターブームのきっかけでもある「六甲のおいしい水」を作っていたメーカーだけど、見限って、売りに出したらしい。それだけ水が売れなくなったということである。ただ唯一、最近ではコカコーラ発売の「いろはす」というミネラルウォーターが好調らしい。これはその容器に薄型のペットボトルを使用しており、ECOのイメージを前面に押し出した商品で、昨今のECOブームに乗っているのだろう。さすがコカコーラである。マーケティングがしっかりしている。
そんな流れで、90年代から現在までを見てみると、やはりどうも根本にあるのは「健康」というテーマのような気がする。ミネラルウォーターも緑茶もZERO系も健康をイメージしている。これはビールにも同じことが言えるが、糖質カット、プリン体カット、みたいな「体に優しいですよ」的缶ビールが良く売れている。
しかし、このZERO系って、本当に健康的なのだろうか?僕はここに疑問を呈したいのだ。
実はこのゼロ系、最近始まったことではなく、90年代から商品が発売されている。みなさん、覚えていないだろうか。90年代にロッテからZERO(ゼロ)というチョコが出ている。僕が小・中の頃だったと思うが、あの時、人口甘味料が一斉に世の中に流行って、砂糖を追いやってしまった。お菓子やアイスにZERO系が流行り、たしか飲料もあったような気がするが、どうだったろうか。しかし、これは単純にまずかったのもあり、ブームは一瞬で終わった。それに加え、細々と発がん性などの話題も上がり、あの時、やはり甘味料は砂糖だという結論に至ったはずである。
それが、ここにきてまた人工甘味料。これは一体どういうことなのだろうか。はっきり言って、やっぱりコカコーラZEROもノーマルコーラに比べるとマズイ。味の違いがわからないという人がいるけど、人工甘味料は後味はおかしい。自分はコーラ好きでよくコーラを飲むが、毎回赤いラベルのやつを買っている。「そんなことは個人の自由だろ」と言われればそれまでだが、この人工甘味料自体、本当に信用できるものなのか疑わしいものだ。
ブームは流れて、健康というテーマから、カロリー管理、栄養のコントロールという分野まで時代は進んできた。足りない栄養素は錠剤でカバーする時代だ。しかし、それが本当に健康につながるのだろうか?疑問である。健康を考えすぎて、結局体を壊しはしまいか?メタボリックやカロリーオフという言葉に踊らされ、ブームに乗せられ、健康を考えていたはずが、どんどん不健康になっていないだろうか?怖いよね。ほんとに。全て信じちゃだめだ。チクロもサッカリンもそうだったじゃないか。ブームって、そういう意味では危険信号みたいなものでもある。

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