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・頑張ろうが言えない
最近、「頑張ろう」という言葉が遣いづらくなった。
巷では「頑張らない」生き方というのが流行のようで、「頑張ろう」という言葉は禁煙指向同様、なんだか駅のホームでもどんどん隅っこの方に追いやられ、ついには灰皿を取り上げられてしまったように、社会から追いやられている感がある。
かつて、スポ根というジャンルの漫画、アニメ、ドラマが流行ったことがあるこの国では、まるでそれが冗談だったかのように、一転、社会は「頑張らないでマイペースに生きましょう」「ナンバー1よりオンリー1」という姿勢の支持を打ち出し始めた。その背景はいったい何だろうと考えていたのだけど、「頑張らない生き方」の裏に、「頑張りすぎている現代人」の存在が見え隠れしていることに気づかされた。
・頑張りすぎる現代人
頑張りすぎる現代人。なんだか妙にしっくりくる語呂だけど、では現代人は一体何をどのように頑張りすぎているのだろう。広辞苑で「頑張る」という項目を引くと、
1我意を張りとおす
2どこまでも忍耐して努力する
3ある場所を占めて動かない
とある。
自分がイメージする「頑張っている人」というのはこの2番目に近く、社会の中で活力的に生きている人々を指す。毎日を、仕事も家庭も遊びも真剣にやっている。その真剣さに対して内的な努力をしている人を「頑張っている人」と定義する。
翻って、「頑張りすぎている人」と聞いてイメージする人はどんな人だろう。仕事に追われている人、ストレスを抱えている人、常に疲労状態にある人・・・。
こう考えてみると、「頑張っている人」というのが健康的なイメージを持っているのに対して、「頑張りすぎている人」というのは、どことなく不健康なイメージがつきまとっている。「頑張りすぎ」という言葉には、どことなく過労や鬱といった言葉と直結するダークなイメージがある。
そこでもう一度、視野を広げて現在の社会を見てみると、社会には頑張っている人を飛び越して、そんな、頑張りすぎている人が多くいるような気がする。頑張っている人は目立たないが、頑張りすぎている人が目立つのだ。それはいったい何故だろう。
・頑張るというハードルの高さ
考えてみると、不思議である。確かに、マスコミに言わせれば社会には過労や鬱が増えたという。しかし彼らは、頑張っている人が増えている、とは言わない。頑張りすぎている人が増えているために、過労や鬱が増加し、「頑張らない」生き方が提唱されているというのに、何故、頑張っている人の増加にイメージが湧かないのか。
そこで自分は、以下のようなことに気づいたのである。
というのも、社会では今、頑張りの飽和が起こっているのではないか。実は全員がすでに頑張っているような気がするのだ。頑張っていることが、まず常識として当たり前のラインにある。だから、どれだけ頑張っても、周りからそれを「頑張っている」と評価されることが少ないのではないか。そうして、誰よりも頑張った人は、結果、オーバーヒートによって心身を病むのではないだろうか。
例えば、サービス残業が「して当たり前」の風潮が表れたように、どこにいてもケータイで仕事の要件が伝えられるように、子供たちは子供たちで偏差値と受験勉強に無条件に巻き込まれるように、本来、個々人として「頑張っている」と評価されて余りあるような行為が、強制的な全員参加によって「やって当然」の行為に成り下がった。「頑張る」という行為が、どんどん高い水準へと押しやられてしまったのだ。それはもはや、幻に近い。そして、その評価を取りに行った人が不帰の人となること多数。過労と鬱の悪夢に辿りついた時には、誰も「頑張った」とは褒めてくれず、「頑張りすぎた」と言われてしまうのだ。会社は見舞金を出して、それで終りである。その後の面倒などみてくれない。また、それと符合するように、最近は鬱病の学生が増加しているという。恐ろしいことだが、現代にとって「頑張る」という行為は、蟻地獄のようなものに思えてくる。人間の使い捨て、淘汰の時代と言ってもいい。これは昨今叫ばれて久しい「燃え尽き症候群」にも同じことが言えるのではないだろうか。
・「頑張らない」という抵抗
だからこそ、そんなおかしな世の中に抵抗するための合言葉として「頑張らない」という言葉が出てきたのであろう。「頑張らない」とは怠ける意でなく、社会に流されないという意であったのだ。自分はここまで考えた時、なるほどと思った。社会は今、日本の未来が誤った方向へ進もうとしていることに気づいているのだ。効率化の代償として、人間の精神が破壊されていっている。本当の豊かさを失っていっている。だからこそ、頑張らないという抵抗を見せている、と自分には思えた。
このマニュアル化社会の中で、日本人は覚えなければならないマニュアルがたくさんある。一律化していく日本列島の中では、遅れをとったものから脱落していく。パソコンを使えない人間はリストラの対象になる。逆にマニュアルを多く覚えたものほど、「勝ち組」に入れる可能性が高くなっていく。数多ある免許や資格、これらを取得するためのテストも、また一つのマニュアルと言えるし、際限なく発売され続ける電化製品の使い方も、より多くを覚えた者が持てはやされる。
頑張らないとは、そういうものに対する抵抗だと思うし、もっと言えば自己のアイデンティティーを確立するための戦いなのだろう。とても勇敢な行為だと思う。ただ、これだけでは弱い。向こうから寄せてくる波に対して、真っ向から向かい合うベクトルでは、いずれ力の強い方に飲み込まれる。遅かれ早かれ、またいずれ「頑張らなければいけない」日がくるだろう。その時に、今度は、頑張る気力が残されているだろうか。この波は「頑張らないものには死を」という強引でとめどもない巨大な波だ。今、我々がその波に逆らう力を本当に持てているかどうか。疑問に思う。やはり、頑張るという方向で生きていかねば、今の時代は生きていけぬのではないか。
・「頑張る」という反抗
そこで自分はもう一度、「頑張る」ことの意味を提唱したい。
「頑張る」という行為は掛け捨てではない。貯蓄である。ところが現在は、この貯蓄にならない頑張りがあまりに多すぎる。例えば、工場で働いた経験のある人なら分かると思うが、ライン作業で覚えた仕事など、そこを辞めてしまえば全く役に立たない。俗にいう「潰しがきかない」というやつだ。そんな「役に立たない経験」「報われない頑張り」が世の中になんと多いことか。だから、貯蓄にならない「頑張り」ならば、その場で勇気を持って捨てることも大事だ。それは、「頑張らない」とは違う。意味のない頑張りはせず、もう一度、意味のある頑張りを探求することである。
それは、反抗としての「頑張り」だ。抵抗ではなく反抗。ただ抗うのでなく、いつかひっくり返してやるのだという気概。それがこの、人間を使い捨てにする、現代を誤った方向へ押し流そうとする巨大な波をいつか打ち消すきっかけになるだろう。だから今は、その波に押されながらも、こっそり自分だけの道を見つけ、そこに向かって頑張るのだ。それは「夢」であり、或いは「希望」といったものである。そういうものがこれからの時代、本当に大切なものになってくるのだろう。個人個人が意味のある頑張りを。それこそが合言葉だ。一律化でない、人間らしい頑張りを。ファイト。