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20110508

核家族とお墓

【カテゴリ:考察】

核家族という言葉を自分はいつ覚えたのだろう。詳しく覚えていないが小学校の時には教科書で習っていたような気がする。親と子、二世代でなる家庭のことを核家族と呼んだ。また、核家族に対して3世代以上の家族を拡大家族と呼びますと習った。
「家におじいちゃんやおばあちゃんがいますか?それなら拡大家族です」
というようなやり取りを授業でしたような気がする。何故、拡大家族が拡大家族なのか、まあ自分の家が拡大家族であったので「別に拡大してないんだけど」という思いがあって、この言葉に違和感があったのを覚えている。この違和感は今でも拭いきれていない。別に拡大じゃないだろう、と思う。

核家族化ということが社会問題として取り上げられるようになって久しいのだけど、核家族化が何故起こったかということは、アルビン・トフラーの「第三の波」に詳しい。アルビン・トフラーという人はアメリカで企業コンサルタントや著述業で活躍した人だけれど、元々新聞記者をしていた生え抜きのジャーナリストで、近代から現代にかけての社会情勢を緻密に分析した「第三の波」は1980年に出版され世界各国で大ヒットを飛ばした。
その中でトフラーは第2次産業や第3次産業の勃興が核家族化を招いたということを丁寧に説明しているのだけど、日本で言えば明治維新後、特に戦後から高度経済成長期にかけて、それまで農家をしていた家の倅が会社員になり、全国各地からそのような若者が東京をはじめとした都市圏に向かったために、自然発生的に核家族が形成されていったと述べている。
その後も核家族化は進み、現代では核家族が当たり前の家族様式になった。今の時代、旦那の実家に嫁ぎますというような女性は自分のまわりにほとんど居ないし、妻の実家に入ります、というような男性は尚更いない。大抵はアパートなどを借りて夫婦二人きり、もしくは子供と一緒に暮らしている。
核家族自体は、これは国の方針だと自分は思っている。核家族、という言葉に甘い響きを含ませたのはイエに窮屈さを感じていた若者たちの理想郷というよりは、国の計画であっただろう。「若者たちよ、農家なんてやめて都会へ出てこいよ、楽しいぞ」と耳元で囁いたのは国ではなかったか。減反政策によって第1次産業を追いやり、第2次、第3次産業をこれからの日本の在り方だと奨励した。その光に吸い寄せられて集まった若者たちが今の都市圏を形成していった。木綿のハンカチーフじゃないが、これは国と企業がタッグを組んでおこなった経済計画だったろうと思う。夢の都会暮らしという飴をばらまいたのではないか。

では一方で、その鞭とはなんだったろう?今回自分が気になっているのはその点であり、具体的に言うと、例えばお墓の問題だ。核家族の人は皆、お墓の問題ってどうしているのだろう。
核家族とは即ち一つ一つの家族が独立しているわけで、その土地に代々暮らして、代々先祖が眠るお墓があります、ということがない。言ってしまえば、皆自分が初代なのであって、自分で自分のお墓を建てねばならない。
ところが核家族化が今後も続くのであれば、その子供たちも核家族になるであろう。そうなった時、その子たちはその子たちで自分が初代として他所に墓地を持つわけで、つまり自分が買った墓にはまあ自分と自分の妻、二人が入ってお終いとなる。子供は子供で墓を持つ。一代で一基ずつ墓を所有するわけだが、そうなった時、墓参りは誰がしてくれるのだろう?
子供は墓参りに来てくれるかもしれない。しかし、これが孫の世代になれば、もうそれも別暮らしの孫である。一緒に暮したことのない祖父と祖母が眠る墓の掃除などいちいち来てくれはしないだろう。ましてや曾曾の関係になれば、もう墓の場所すらわからなくなるのではないか。ということは自分の子供が死んだら、そこから我々は無縁仏になるのではないか?状況によったら、33回忌を前に無縁仏になる可能性だってあるのではないか?いや、別に自分の死後なんて関知することではないと言ってしまえばそれまでだけど、これ考えていったら凄いことだなと思った。現代人の多くが100年後には無縁仏になっているのではないか、実は。
で、翻って考えてみれば、そういったお墓の問題というのは90年代から盛んに言われていて、「お墓がない」てな映画もあった。核家族皆がお墓を作ったら、そりゃ土地もなくなるし、地代の値上がりが激しく、一般庶民はお墓すら持てない時代が来るかもしれない。いや、もうすでに来ているのだろう。
んで、最近知ったのだけど、そんな時代を見越してか、寺院側ではネット墓というのを拵えているところが増えているのだという。これはインターネット上に架空のお墓を所持して、そこにアクセスすることでお参りするというシステムらしいのだけど・・。特に都市部では、今上に言ったようなことが現実問題として起こっており、墓を持たないという選択肢も着々と増えているのだろう。お骨だけを寺の納骨堂に納めてもらって、お参りは全国どこからでもパソコンでと、そんなサービスがすでに始まっているらしい。今後も核家族の形態が続けば、このような流れが主流になっていくのかもしれない。でも、そうしたらどの道、これやっぱり100年後は無縁仏でしょう?納骨堂に保管されているだけの無縁仏になってしまう。よく永代供養という売り文句を見るけれど、これもお寺によって何年間という制限がついているらしいから、その後は果たしてどうなってしまうのか。ただ一基の墓に大勢の人と合祀されてしまうのだろうか。そのお墓すらないかもしれない。

以上のようなことが、数十年前の飴に対して起こり始めている気がする。前々回に江戸の農民という話で庶民の空しさについて書いたけど、結局は現代でも庶民は空しい存在なのだろう。トフラーが言うように、現代の家庭事情というのは産業から、つまりは経済が最優先で起こっているのであって、そこには実は本当の意味での庶民の幸せなんて考えられていないのではないだろうか?庶民の幸せとは一体何だろう。
最近、散骨が増えているという。骨を撒く、ってこれ法律的にはグレーらしいけど分かる気がする。いろいろな理由があるだろうが、小さな骨壷に入ったまま、無縁仏にはなりたくない。それならまだ土に還ることを選択したいというのは、これ、ごく自然な人情だろう。

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