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「100万回生きたねこ」という絵本を書いた作家の佐野洋子さんと、漫画家の西原理恵子さんの対談を読んだ。「佐野洋子対談集人生のきほん」という本で、同書の中で佐野さんは、イラストレーターのリリー・フランキーさんとも対談している。3人は武蔵野美術大学の先輩後輩だそうだ。
その本の中で強く印象に残った言葉があるのだが、佐野さんが「出産」について話している時に、このようなセリフがあった。
『私さ、アダムとイブの昔から、男の人ってとってもいい人だと思うのね。女は子どもを産んだら、まぎれもなく自分の子ってわかるよね。でも父って自分で産むわけじゃないから、「この子は自分の子であろう」と信じるだけで、世の中を形成してきたんだよね。もし女がそっち側なら、絶対に信じないと思うよ(笑)。信じるだけで子育てなんて、できないと思う。男はいい人で、観念だけで動いていけるけど、女は体全体を使うことでうまく回ってると思う。』
人間に対しての深い洞察、ジェンダーフリーでフラットな目線、女性という立場にありながら女を特別視せず、男をけなさず、また男に媚びず、佐野さんは実に的確な話をしている。
実際子供について、男というのは自分の子をDNA鑑定にかけない限り、それが本当に自分の子かどうかなんて保証はない。それが真に我が子だと、100%の保障を得ているのは女だけであり、これは女の特権である。
男というのは、いくら腕力があろうが、権力を持とうが、知力に長けようが、また思うだけ女遊びをしたところで、所詮子供を生むことは出来ない生き物だ。自分で子供を産めない限り、こればかりは女に頭を下げて頼むしかない。そうやって、俺の子を生んでくれ、と懇願して生まれてきた子が実は他人の子供であろうと、男には「これが我が子だ」と信じることしか出来ず、だから男は観念的な世界の中でしか生きられない。それは決して男の強さでなく、むしろ弱さもろさの部分なのだけど、これを「男はいい人」という掬い方で包括してしまう佐野さんの優しさに自分は痺れた。
この本は今年出版された、まだ新しい本なのだが、残念ながら佐野さんは去年の11月に亡くなられている。享年72歳。癌だったそうだ。リリー・フランキーさんとの対談時は2009年なのだが、この頃、すでに医師から余命2年の宣告を受けていたようで、死期を覚った中での対談だったらしい。
『子どもって、いつ泣くかわかんないし、全然自分の思いどおりにいかないんだよね。初めて私、「思いどおりにいかない」と思ったのが子どもだった。思いどおりにいかないことを思い知るってことは、すっごい大事なことだね。女だからそう思うのかもしれないけど、ごく普通の人が一般的にやっていることって、人生の基本だと思うね。』
リリー・フランキーさんとは、対談を2回に分けて行う予定だったようだが、2回目の対談は佐野さんの体調悪化により実現しなかった。そしてそのまま、佐野さんは永眠された。それで、この本の最後は、急きょそういう構成にしたのだろうけど、リリーさんから佐野さんへの手紙で締めくくられている。
『いつも佐野さんの絵を見て、こんな美しい絵が描けたらなと思っていました。佐野さんのエッセイを読みながら、こんな風に年を重ねていきたいなと思っていました。絵は無理ですが、老け方で頑張ります。佐野さん、お疲れさまでした。そして、ありがとうございます。また、どこかで。』
読み終えて、なんかこう、雰囲気のある対談集だったなあと思った。
読後、図書館で「100万回生きたねこ」を借りて読んでみた。ストーリーを聞いたことはあったが、この絵本を実際に読むのは初めて。ざっと、あらすじを話すと・・。
『主人公のねこは死んでも死んでも生き返り、100万人の飼い主のもとで暮らす。ある時は王様、ある時は船乗り、ある時はおばあさんと、様々な飼い主にかわいがられ、恵まれた生活を送りながらも、いつも飼い主のことが嫌いで、自分のことだけが大好きだった。ある日、誰の猫でもない野良猫として生まれてきたねこは、そこで1匹の白い猫と出会う。ねこは初めて自分以外の、その白猫のことが大好きになり、やがて一緒に暮らすようになって、子供をたくさん作る。ところが、子供が大きくなり巣立ち、白猫はどんどんと年をとると、先に死んでしまう。その亡骸に寄り添いながら、ねこは100万回泣いた。そして、ねこは白猫の横でそのまま静かになると、もう生き返ることはなかった』
佐野さんは北京生まれで、子供の頃から母親が嫌いで、そんな母親との確執話や、それでも結局、自分が最後まで母親の面倒を見ていたこと、そして子供の話など、本の中では饒舌な語り口で話しているのだが、この絵本を読んでいたら、ひょっとして主人公のねこは、佐野さんの自己投影だったのかもしれないと、今更ながらに思った。