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20100426

詩作、阿呆の愛

【カテゴリ:詩】


物欲の果てに海が漂っている。曇天を幾重にも重ねたような、雲が低く垂れこめた空の下。沖の離れ島への渡し船は、けれども人で満ちている。様子を窺ってみれば、みな何やら袂に隠し持っている。船頭は至って無表情だ。何を考えているのか、さっぱり分からない。ただ櫂だけが小波に揺られ、その船べりに擦れてギシッギシッと音を立てている。


船頭はここで何をしているのだろう。こんな船渡しをしていて、一体どういう料簡なのだろう。懐疑心に囚われつつも、陸を発つ人々を見送る。船が離岸する。すると、どうしたことだろう。そうして、幾艘もの船が岸を離れた途端に船頭は船を漕ぐのをやめてしまった。船はひとりでに沖へと流れてゆく。チラと船頭が振り返る。血の涙を流している。


背後から誰かが迫ってきて、出航した船に叫んでいた。履き古した草鞋の緒が今にもちぎれそうなほどに細く頼りない。所望の人はすでに船の上と見えて、声は潮騒にかき消された。肩を落とした人が低く呻く。沖の離れ島には何があるのだろう。ここからそれは見えなかった。ただ、島があるのだと船の上の人は言うが、その言葉は草鞋の緒よりも頼りなかった。


鯨のことを考えていた。もうだいぶ時間も経ったはずだが、空は依然として暗い。もしかしたら、夜はこれからなのかもしれない。鯨はこの暗い海の中で何を食べ、どう過ごしているのだろうか。もしも自分が鯨に食べられたのなら、プランクトンの付着した髭の間を、また外界へと泳ぎ戻ることができるだろうか。戻れたのなら、何をしようか。


海は独りで生きているのではなかった。海は惑星において、一つの「族」に過ぎなかった。陸には大きな隔たりがあったが、海はどこまでいっても繋がっていた。その結束故、人は海に憧れるのだ。振り向くと地平線にかすかな明かりが昇るのが見える。鯨の中にも光は届くだろうか。届く可能性を考えれば、海上よりもそれは遥かに鯨の中にあった。


男も結構不安なもので、日々、心のどこかで母性的なものを欲求している。それは例えば、木漏れ日だったり、或いは秋の吹き溜まり、苔むす道々、グッピーやコカコーラの結露だったりするのだけど、これを人は、まー、最近の言い方をすれば「癒し」なんて言う。人は癒されることで、どういう方向に向かうかというと、気持ちのいい方向に向かう。その気持ちのよさというのを僕は善だと思っているのだけど、何故現代において「癒し」が必要かというと、それだけ現代に気持ちのよくないこと、つまり悪がはびこっているからだ。例えば、あらぬ噂話、お金のこと、見て見ぬふりをした自分、遠慮やお世辞にそれは必ず付きまとうから、社会生活を営む上で必然的に人は悪と付き合っていかなければいけない。だめだ、おら、嫌んだ、おら、悪とは付き合いたくねっちゃ、と言っても逃げられない。逃げるとするなら、これはいくつかの方法をもってして、社会生活をやめることである。そうでなく、社会にいながらにしてこれに立ち向かう方法、というのは唯一つしかないと僕は思う。それは愛だ。そんなわけで最近、愛について、愛の過酷、愛の獲得、愛の成り立ち、愛の精製法、一言で言って愛の方程式を考えているのだけど、そのためには知識が必要だなあ、なんて思って本を読んでいる。散歩している。詩を書いている。結局、愛=神=エネルギー=自然=宇宙なのかもしれんなあ。相対性理論って、愛の理論なのかもしらん。なんて。しかし海。なんか海、いいね海、あ、るるるるる。


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