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20100504

阿呆の縁

【カテゴリ:阿呆】

5月1日に東京で友人の結婚式があって、出席してきた。会場がお台場だったので、なんやら滅茶苦茶に東京という感じの景色。建設中のスカイツリーやそれに負けじなのかどうなのか、台頭する若者にいっやあ面目は譲れねえといった形のおっさん的な東京タワーはしかしネオンに彩られてずわわわと忍び寄ってくるようであった。式は順調に運んで、結局2次会として、彼ら、まあ新婚夫婦が宿泊するスイートルームで祝杯をあげ、おうおうおう、僕らは青春を謳歌してきたわけなのだけど、その帰りの惨状たるや凄まじく、一緒に地元埼玉へと戻る同席者の車に便乗して深夜のあみだくじのような国道、県道、市道を走行しつつ、おうおうおう、自分は青春を嘔吐してきた。んで、翌日。宮崎に帰る僕は、羽田空港へと急ぐわけだけど、今日は何の日でせうか、なんの日でせうか、って忌野清志郎の一周忌だってんで、JR国立駅周辺にて、なんやら駅前にファンが集っているという情報を入手し、自分も手土産を持参、キヨシローに感謝の言葉でも述べたいなと思って家を発ったのだけど、国立ってどこ?なんつって駅の路線図を凝視していたら、あーた、中央線?同じ東京でも広いもんだ。そっちへ行っていたら、飛行機に間に合わなくなるってんで、仕方なく空港へ直行。RCを口ずさみながら宮崎の土を踏んだ。アスファルトを踏んだ。のが昨日。そいでまた、今日も僕は詩作なんぞしつつ、じゃがりこ食べたりしているわけなのだけど、ハロー、みなさんの先週はどうでしたでしょうか。僕はけっこう今ここに書きたいことが山積みになっていて、それを一つ一つ書いていくと本当に山になるってんで、まあ一つか二つ狙いどころを定めて書いていきたいのだけど、どうでもいいようなところから始めていくと、どうもコボちゃんに弟か妹が出来るようだ、ってなことがある。コボちゃんももうすぐ連載1万回を迎えるわけだけど、読売新聞紙上でね、どうもこの1万回に合わせて生まれるんじゃねえかという予測を自分はしていて、ハロー、その名前を紙上で募集していたので、自分は応募しようかどうしようか迷った。ててて、まあ、それは本当にどうでもいいことで、もうちょっとテーマをもったことを書いていきたいのだけど、実は先週、自分がこのブログに書き綴った愛についての独り言みたいなことに、読者の方からメールを頂いて。愛について最近よく思うのだけどブログを見て考えさせられました、という内容のメールで、僕はそのメールを見て、また愛について少し掘り下げてみようと思い、試み、それをしたためて返信したわけだけど、まあ、結局こういうことがもうすでに愛なんだと思うわけで。ってのは、循環。金は天下の回りもの、なんて言うけれど、実は愛こそ天下の回りものであって、人間関係は鏡、なんてことを仰った人もあるくらいで、笑顔をあげれば笑顔が返る。そうしてその笑顔がまた誰かに笑顔を託し、それが金と違うのは愛は金銭のようなべとべと感がなく、増大しつつ天下を回るってのが、愛の醍醐味なんだと僕は思っている。それが現代において何がいけんかというと、コミュニケーションが減ってきていることで、またその数少ない手段さえもケータイなどによって隠蔽、ってんじゃないけれど表に出ずらくなってしまってきており、例えば年賀状など最近は減って、あまり送らない、メールで済ませちゃうなんて人が多いけれど、これ、年賀状とメールが同位かと言ったら全く違うのであって、何故なら、年賀状なら自分以外の他人もそれを閲するチャンスがあるから、まあ郵便局員、家族、自分ちに遊びに来た友人などがその年賀状を見て、当人と、年賀状の送り主との間の愛を少し垣間見つつ、またそこにちょっぴり温かいような「あ、こいつ良くしてもらってんだなあ」という思い、つまりそれはすなわちその時点で愛なのだけど、これが芽生えたりするのである。だけどもメールにはこれがないわけだから、年賀状とメールの差は愛という観点において大なのだ。で、まあ件のメール、先方のありがとうございましたに、こちらもありがとうと返して、いっやあ、気持ちがいいなあと思っていたら、その方からまたメールが届いて。自分のことを気遣ってくれるメールの内容に感動しました、という書き出し。丁寧な感謝の言葉と、縁について考えている、というようなことが書かれてあったので、また自分は縁について少し模索、その返答を送ろうかどうしようか迷ったのだけど、せっかくなのでここに書かせてもらうことにして、これまた上記の年賀状と同位、より多くの皆さんにその返答を閲してもらうことで、仮にメールをくれた人をAさんとしよう、僕がAさんと循環した気持ちのいいやり取りを回りものの愛としてここに放出。一方的にも、皆様に受け取ってもらえれば嬉しいな、なんて決し、それってただお前が書きたいだけじゃねえの、なんて言わずに読んでもらえたらなって思ってマダガスカル。
縁。むずかしいね、縁。縁について考えていると、自然、自分は思いが遺伝子について飛んでいくわけだけど、遺伝子ってのは、これ実に不思議だ。ってのは、人間と言わず、生物というものは進化してゆくものであって、その進化の過程は遺伝子、まあ言ってみりゃ卵子と精子に結集さるるわけで、これを繰り返していくことによって、生物は形態も能力も変化していく。これはよくよく考えると凄まじいことであって、例えば1000年生きる人間がいると仮定し、その人が1000年生きるのと、60年しか生きぬ人間が20歳、30歳で子供を作り、それを1000年繰り返した先に生まれる人間が同等のものかと考えると、自分は違うと思う。生物は海から陸へあがってきた。そこから鳥が生まれた。翼をもたない生物が翼をもつようになるまで何年かかったのか自分は知らないが、魚が1000年生きても魚のままだろうけど、10代20代と繰り返すことによって、足が段々に、言えば1mmでも2mmでも伸びていくのが遺伝子の力であって、だからこれはとりあえず数年のスパンで生死を繰り返す、その生き様を精子に集結させ子供に託し、またその子が成長して、その生きざまを精子に閉じ込め、またそうして生まれた子が、って繰り返す卵子と精子の力、あんなちっぽけなものに生命は何度も全力を注ぎこみ、それがバカ真面目にも1000年後の翼になるのだと僕は思っている。そんな凄まじいシステムを生物は持っていて、一代では成し得ないことが、代を繰り返すことによって可能になるのである。僕は高校のころからそんなことを考えていて、「だから人間は本気で空を飛ぼうと思ったら、いつか空を飛べるようになるんだ」と友人に力説していたが、友人たちからは「そんなことはない」と笑われるだけであった。それで、縁がそれとどう関係しているかというのは、僕個人の意見として、突き詰めていくとどうも縁というもは、この遺伝というものと切っても切れない関係であるような気がしてならない、というか、遺伝=縁そのものであるような気がするのだ。それは男女の縁にしても、よく女性は父親に似た男性を選ぶというが、日々何人もの男性とすれ違いながらも、最終的に特定の人を選ぶというのは遺伝の力によってなされることであり、世間ではこれを巡り合い、つまり縁なんて言うが、訳はない、巡り合いなんて偶然のものではなく、実は自分がより自分に適した相手を選択しているに過ぎない。人間はこの世の中にたくさんいて、全て同じようだが全て違う。どうもこの人が自分が父母から祖父祖母から受け継いできた、その遺伝子の末端である私に相性がよさそうだ、ほらご飯の好みも似てる、好きな音楽も似てる、自分にないものを持っている、それを足せば子供はまた進化した生命として生まれてくるんじゃないか、なんてって、相手を選ぶのである。縁と勘違いしやすい言葉に運命があるが、運命とはまた全く別のものである。だから縁は、自分が作っていくものではなく、作らされるものだ。選ぶ、というよりは、選ばされる。それは過去の遺伝子の力によって。肉が好きな遺伝子を持っていると、やはり友人にも恋人にも、自然と肉好きな人が集まるように、暴力的なほどに縁とは巡り合わされるものなのだ。それが縁である。と自分は思っているのだけど、どうだろう。このことを的確に言い得ている慣用句が「類は友を呼ぶ」だと思え、考えれば、それってもう強引なまでの縁でしょう?逆を言えば、人は自分と根本的にスタンスの違う人間とは、巡り合ってもなっかなか長続きしない、ってのが真実だと思うのです。うるるるる。


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