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ある歌人について書いてみたい。
笹井宏之。1982年、佐賀県生まれ。
それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした
僕が笹井宏之を知ったのは、現代詩手帖2010年6月号の「短詩型新時代・ゼロ年代の短歌100選」という特集でだった。2000年から2010年までの名歌を網羅したその選の中で、彼の歌は、ある独特の恍惚とした光を放っていた。その光に魅せられた僕は、彼のことをもっと知りたくなった。調べてみれば、自分と同じ1982年生まれである。同世代の人間が一体どのような歌を詠むのか、強い興味が湧いた。
わたがしであったことなど知る由もなく海岸に流れ着く棒
読者を一波にさらっていく魅惑的な世界観、そこにある得も言われぬ温もり。彼の歌を知れば知るほど、僕はいつまでもそこに浸っていたい気持ちになった。これが短歌なんだろうか。そんなことすら分からなくなり、気がつけば、真似をして歌を詠みはじめている。
俵万智以来、短歌の敷居は広がった。多くの人の共感を呼ぶ「日常の呟き」が歌となり、短歌は内外にその世界を押し広げた。
そして笹井の歌はさらにその先にある可能性を見つめている。それはイメージの共有だ。
海岸に流れ着いていた棒が、綿菓子の棒であったかどうかなど誰も知らない。しかし、笹井はその棒の成り行きを全て見てきたかのような視線で語る。不思議とそこに違和感はない。読む者には、綿菓子を売る縁日のにぎわいと、ゴミに混じって打ち上げられた寂しき海岸の割り箸を思い起こさせる。その対比は、人生の盛衰そのものを想起させ、だから僕はこの歌に自然と共感を覚えてしまう。これは、事実を述べた歌ではない。イメージを歌ったものなのだ。それが、この短いリズムに凝縮し、完成されている。すごいことだと僕は思う。
この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい
短歌というジャンルは、広義にいえば詩である。
自分は詩人を自称している以上、数多の詩を読み、よりよく理解し、噛み砕いて反芻し、自身の作品を生みだしていかねばならないのかもしれない。しかし、どうも俳句と短歌は、詩とは別物のような気がして、正直あまり好きにはなれなかった。それは、57577という決まったスタイル、俳句に至っては「季語を入れなさい」というルールが好きになれなかったからだ。国語の教師が、「俳句とは、短歌とは、こういうスタイルなのです」という度、「なんで?別に季語がなくてもいいじゃん。文字数ずれても語呂が良ければいいじゃん」と思ってきた。だから自分は、詩を書きはじめてから今まで、もっぱら文字数も構成も中身も、てんでバラバラな詩ばかりを作ってきた。カチッとした印象の強い俳句や、短歌に興味が湧かなかった。
しかし、笹井の詩は短歌でありながら、短歌の枠を超えていた。決まりに縛られない自由な律。「こんな表現方法もあったのか!?」と自分は脳天に衝撃を受けたかのようだ。それまでの自分の浅はかさを知るとともに、一気に自分にとって短歌の可能性が広がったのである。
からっぽのうつわ みちているうつわ それから、その途中のうつわ
「スライスチーズ、スライスチーズになる前の話をぼくにきかせておくれ」
真夜中の胡椒通りに立ってみる きゅうくつな靴つっかけたまま
「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい
拾ったら手紙のようで開いたらあなたのようでもう見れません
水田を歩む クリアファイルから散った真冬の譜面を追って
(笹井宏之歌集「ひとさらい」より)
僕は、彼の天才性に酔いしれる。こういう仕事ができるのは天才の所業なのだと、決めてかかっている。
普通、人はすでに出来上がった型の中で生きようとする。ルールというものが社会にあるのは、ルール破りを犯した者を罰するためではなく、ある程度、人間は縛られて生きる方が楽だからだ。全くルールがないというのは生きづらい。ルールとは椅子の背もたれのようなもので、それがなければ360度どこからでも椅子に座れるが、背もたれをつけることによって決まった一方向からのみ、楽に座れるようになるのである。そうして、背もたれの側から座ろうとする者を受け付けない。それが社会にとっての安定であり、安寧なのだ。大抵はそれに何の疑問も抱かず、周りがそうするように、自分も背もたれに向かって腰かける。
しかし、彼は短歌という完成された椅子の背もたれを取り払って、補助輪をつけてみたり、羽をつけてみたり、時には脚の存在を疑ったりしながら、自分だけの椅子を完成させてしまった。それは「こんな椅子もあっていいんじゃないの?」という彼自身の発想だ。そうして、僕はその椅子の有り様に感動しているのである。
惜しむらくは、彼がもうこの世にいないことだ。
2009年1月、笹井宏之は心臓麻痺によりこの世を去っている。もともと虚弱体質だったようだが、天才とは、なぜ夭逝するのか。
夭逝するから天才なのか、天才だから夭逝するのか、そんな不毛な意見を数ヶ月前に「薄命のオーラ」というテーマで、このブログにも書いた。あの時、僕には笹井宏之のことが頭にあったのだ。早い話、彼の才能に刺激されずにはいられなかった。
彼が生きていたならば、今、どのような歌を詠んでいたのだろう。現在、彼の著作は「ひとさらい」という、ただ一冊の歌集しか残されていない。それも、書店には置かれていない。インターネットによる販売だけで、そこに注文すると、オーダーのかかった分だけ本を製作するらしく、10日ほどかけて配送してくれる。
ウエディングケーキのうえでつつがなく蝿が挙式をすませて帰る
センスの卓越した皮肉と、慈しみの平等な愛を持って彼は歌う。
人が愛をバックテーマに盛大に結婚式を祝う中、そのど真中で、詩人の目を捉えたのは一組の蝿だった。皆が笑顔のその中で、忌み嫌われ、存在を無視されながら、蝿は愛の誓いを交わすのである。その一瞬間、蝿と人間に何の違いがあるのだろう。人間なんて前置きは長く、後腐れがある分、余計だ。つつがなく、愛し合う蝿に人は何を見習うべきなのだろうか。天才の視線が、僕の胸に突き刺さる。