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20110424

江戸の農民

【カテゴリ:考察】

江戸時代、日本人の8割は農民だったそうだ。
時代劇に出てくる殿様やお侍さんみたいな人達は人口の中の1割ほどであり、呉服屋だったり、大工だったり、町人と呼ばれる人達、要するに城下町に住む人間はそれほど多くなかった。むしろ町の外に大きな集落である“村”が点在し、8割の人々はそこで暮らしていた。
時代劇を見ていると、農村が出てこない。水戸黄門でも遠山の金さんでも、繰り広げられるのは町人と代官とヤクザと捕吏、あと娘か。まあそのくらいの出演者のごたごたであって、例えば農民が田んぼで田植えをしているシーンで「この紋どころが目に入らぬかっ!」とか「ならば見せてくれよう桜吹雪」なんつうコマ割の時代劇があるだろうか。そんなものはないのであって、物語は町内に住む2割の人間の話に終始しており、8割の人間は一体どこへ行ってしまったのだろう。初めから存在を無視されている。
農民たちの仕事は、領主に年貢を納めることであった。年貢の中身は当然米だが、農民が直接お城へ行って米を納めるのではない。各村には農民の代表者がいて、その者が村の年貢をお城へ納める。この村の代表者が、いわゆる庄屋であった。庄屋という呼び名は主に関西地方の名称であり、関東では名主(なぬし)というところが多い。また東北、北陸、九州地方ではこれを肝煎(きもいり)といった。今でも、肝煎りという言葉は斡旋や紹介という意味に使われるが、要するに庄屋とは農民と領主との間に立つ世話役であり、仲人であり、中間管理職のような役職であった。
庄屋が特殊なのは、領主との関係においては領(藩)という組織の末端で百姓を支配する側の人間であり、百姓との関係においては領主へ意見する村の代表者としての顔を持っていたことで、常にこの相反する二つの顔を持っていた。
年貢のシステムは、まず領主から「この日までにこれだけの米を納めるように」というお達しが来ると、庄屋はそれを自村の百姓の前で発表する。「今年の年貢はこれだけだから、お前のところはこれだけ、お前のところはこれだけ・・」という具合で各人に割り振っていく。収穫の時期が来ると、一旦は自分のところへ米を集め、それをまとめてお城の蔵へ納める。
この時、庄屋に随行して村から2、3人の百姓が同行した。これはもしも庄屋が悪いやつで、納めるべき米を実は横取りしていた――現代でも銀行や信用金庫などで預金者から預かったお金を預金せずに横領、着服して捕まる行員が時々いるけれど――なんてことがないように、庄屋を監視する役割であった。そのような犯罪を防止するために、村の百姓から代表数人が選出されて、お城へ米を納める日は庄屋についていったのである。この監視役の百姓のことを百姓代と言った。
百姓代は庄屋の不正を監視するとともに、その他大勢の百姓の意見を取りまとめ、庄屋へ陳情するという役割も担っていた。そして庄屋はこの百姓代の話をよく聞き加味したうえで、御上へ陳情に上がる。今で言うなら百姓代とは自治会長のようなものだったろう。おそらく、百姓らにとって「自分たちの代表は百姓代である」という意識が強かったのではないだろうか。逆に庄屋というのは今でいう役場のようなものであったのかもしれない。本来は庄屋も百姓なのだけど、身分的にも苗字帯刀を許されていた家が多く、どちらかというと行政側の人間だったのだろう。

なんで自分がこんな江戸時代の農民について書いているかというと、先に挙げたように時代劇でも、それから学校の授業でもそうだが、意外とやらないのである。意外とこの辺りのことを教えないし、習わない。それでもって意外とみんな興味を持っていない。
幕府だとか大名だとか戦国武将だとか、最近で言うなら大奥、江、なんつって、確かにそういったものは華々しいのだけど、冒頭で挙げたように江戸時代、日本人の8割は農民だった。つまり、現代においても過半数の人間の先祖は農民だったであろうと推測されるのに、ほとんどの人は自分の先祖の生活がどういったものであったのかを知らない。それを知らずに残り2割の人間の生活、伊達正宗が隻眼だったとか、秀吉は妾が多かったとか、紀伊國屋文左衛門がどうやって儲けたかとか、清水次郎長の子分が森の石松だの、宮本武蔵が誰と戦っただの、言ってしまえばどうでもいいような色々の情報ばかり持っている。

これは何なのだろうか、と思ったのである。

庶民はいつの時代もスターに憧れてばかりで、どれだけ時間が経っても決して主役にはなれない。江戸時代の農民がそうであったように、現代の庶民も100年後には語られぬ存在になりきってしまうのだろう。自分も名のなき人になり果ててしまうかもしれない。
実家の過去帳を調べていて、自分の先祖は代々農民であったことを知った。それで正直、自分も慌てて江戸時代の農村について勉強しているのだけど、なんか農民って可哀相だなって思ったのだ。
こんなことを言うと農家に失礼かもしれないけど、夏の暑い中も冬の寒い中も外に出て田んぼを管理し、作った米はほとんど御上に取り上げられて自分たちの食べる分は無く、武士が一人切腹する間に、何十人何百人の農民が餓死し、疫病におかされ、そこまでしているのに町人からはどん百姓と馬鹿にされ、歴史に名を残すこともない。さらに言えば子孫にも実態を知られることがなく、その子孫である自分がよく知っているのは、むしろ武将だの大名だの米を搾取していた側の人間なのである。灯台もと暗しというのか、自分の先祖のことを一番知らないのだ。
繰り返すが、過半数の人は農民の子孫である。出が公家とか貴族とか武家だとか、そういった人達には縁のない話かもしれないけれど、江戸時代の農民、農民というか庶民というか、そういった大多数の人達の存在の儚さを思うと・・なんだかなあ、と首を傾げてしまうのである。

逆光の銅像 逆光の親子

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