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高校生の頃、中学時代の恩師の先生とファミレスへ食事に行く機会があった。地元を離れて遠地の高校へ進学した僕は、長期休みで帰省する度に、「頑張ってるか?」と、この先生に食事へ連れて行ってもらっていた。
運ばれてきたハンバーグ定食を食べながら、自分の近況を先生に話す。先生はそれを「うんうん」とうなづき、聞いてくれる。食事を終え、ドリンクバーで時間をもたせながら、自分はふと、気になっていたある質問を先生にしてみた。
「先生、先生にとって親孝行ってなんですか?」
その頃の僕は、親孝行というものをただ単純に「プレゼントによる恩返し」ぐらいにしか考えていなかった。「こういうプレゼントって、どうでしょうか?」というような意味合いで質問したまでだった。
ところが先生の答えは意外だった。
「俺にとっての親孝行は、親に米をもらい続けることかな」
先生の答えの意味が分からず、きょとんとしていると、それを察したのか説明してくれた。
「親がさ、いつも米をくれるんだよ。でもさ、俺はもう働いているわけだし、米なんて別に貰わなくても、買うお金はあるんだよ。あるんだけど、自分で米を買わずに、時々実家に顔を出して、ごめんまた米くれる?って言うんだ。そうすると、親はまたかい?なんて言いながら、とっておいたように奥から米を出してくれる。ほら、うちは農家だしさ。それで親は嬉しいんだよな。俺はそれが親孝行だと思ってるよ。それぐらいしかできないんじゃないかな。別に親もお金に困っているわけではないし…」
衝撃的な言葉だった。目からうろこが落ちるとはこういうことを言うのだろうか。それまで「あげる」ことばかりが親孝行だとばかり思っていた僕は、先生の「もらうことが親孝行」という真逆の答えに圧倒され、言葉に詰まってしまった。
「ぼ、ぼくは、いつか親に旅行をプレゼントしたいと思ってるんです…」
急に自分の答えに自信をなくしてしまい、尻すぼみになった言葉をつかまえ、先生は
「いいと思うよ。それでいいと思う」
と仰ってくれた。
月夜、あるだけの米をとぐ 山頭火
一人暮らしをしていると、親がやけに米の心配をしてくる。
「ちゃんと食べてるのか?」
「米を送ってやろうか?」
僕も本業ではないにしろ、アルバイトをしているのだから米を買うくらいのお金はある。埼玉から宮崎まで、わざわざ段ボール箱に米を詰めて高い運賃を払ってまで送ることはない。そう思う。そう思うのだけど、
「ありがとう。送って送って!」
と言えるのは、きっと、あの時の恩師の言葉があったからだろう。一日に米三合を炊いて食べている。大食いなもので、自然、一人暮らしにしては米の減りが早い。紙袋の底に残った米をひっくり返して釜の中にジャラジャラこぼしながら、袋のケツを叩いている。
電話で親に次の米の催促をする。米の減りが早いと親も安心するのか、「もうかい?」なんて言いながら「明日には送るよ」と嬉しそうだ。
山頭火の米は自分で買ったものだったろうか?それとも誰かにもらったものだったろうか?あるだけの米は絶望だったろうか、希望だったろうか。
夜、薄暗い電灯の下、2畳ほどの台所に立って、一人最後の米を洗っている。白濁とした研ぎ水が排水溝に吸い込まれていく様を眺めながら、そんなことを考えている。今宵、月が出ているかどうかは、窓のない台所からではわからない。