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前回(http://sarobou.blog.2nt.com/blog-entry-161.html)、お経の意味について書きました。お経は昔の偉人が遺したありがたい言葉だというのが一般的な解釈ですが、それだけではなく、お経には合理的な意味があるのではないか、声を出す、発声としての意味も大きいのではないか、と書きました。
体を整える、ということは健康の土台です。
心身、という言葉があります。しかし、これは本当は身心と書くべきなのでしょう。心が先ではありません。健全な心というのは、健全な体あってこそですから、先に来るのは身です。
お経もそうですが、源学4で挙げた8つの行動に正しさを求めた時、生まれてくる一つの共通点があります。
それは体の芯を理解し、真っすぐになるということです。
・寝方
・立ち方
・歩き方
・座り方
・話し方
・食べ方
・性交の仕方
・呼吸の仕方
これらの基本となるのが体の姿勢です。体がゆがんでいると、立っていてもすぐに疲れてしまうし、各部位に負担がかかり、痛みが生まれます。歩いても座っても、それは同様です。
体が歪んでいると、発声すらもままならなくなる。声が出なくなるというわけではありません。昔からよく「声は腹から出せ」と言いますが、体が歪んでいると、これが自然には出来なくなる。
健康には理屈があります。だから人間の行動には全て「理に適ったやり方」というものがある。体に芯を持つ、ということは簡単そうで難しい。ただ単に背筋を伸ばすということだけではありません。
おそらくこの人間の体の仕組みについて、古代の人間は、相当な研究を重ねてきたはずです。何代にもわたる研究を行ってきたでしょう。それは現在のわれわれが想像もつかないようなレベルの話だと思います。
では、そういうもの、人間の体の仕組みについての研究成果と呼ぶべきもの、これはどのように受け継がれてきたのでしょう?古代から現代まで、その研究成果は残されてきたのでしょうか?それともどこかで果ててしまったのでしょうか?残っているとすれば、どこにあるのでしょう?
これを読み解くヒントとして、最も大きな手掛かりになるのが宗教でしょう。やはり歴史の中の宗教というのは、それだけの知識を蓄えています。
例えば、お坊さんにしろ、高尚な方というのは座禅もお経も実にしっかりしているものです。近くで見ていると、その美しさについ引き込まれてしまいそうになります。座禅の姿勢にゆがみがなく、かといって力みもなく、自然でありながら、ブレない。すると、やはりお経を読み上げる声もどしっと力のある真っすぐな声になります。
つまり、体を作る。体づくりをシステム化したもの、その種のようなものがどうも仏教自体に含まれているのではないでしょうか。むしろ、仏教とは、そのための方法論だと考える方が自然です。現代の仏教は、表面上は資本主義社会の中での葬式仏教ですが、その根は違うものなのでしょう。
では翻って、上に挙げた8つの行動で、もっとも簡単に行えるものとは何でしょうか?
例えば、正しい歩き方、といっても、歩き続けるということは少なからず苦を伴います。食事にしても好きなものを好きなだけ食べるというわけではなく、精進料理のように節制を旨ともするわけですから、これは我慢です。答えから言って、おそらく、最も理想的なものは性交でしょう。それは、性交が快楽を得やすいものだからです。
つまり、快楽を伴い、なおかつ体を健康にする方法。苦しいことが嫌いな人でも続けられる最大の健康法は、セックスでしょう。というか、セックス以外にないのではないでしょうか。ですから、僕はここが真理だと考えています。
では、もう一度翻って、仏教に戻ってみますと、仏教でもちゃんとセックスについて触れたお経があります。これを般若理趣経と言います。
仏教界では、このお経を非常に丁重に扱っています。真言宗では日夜読経する重要な経典なのですが、その解釈は「セックスとは一つの例えだ」とされています。というのも、これは意味を履き違えると、大変なことになりかねないお経です。過去にこの経が元になり、真言立川流というセックス主導の宗派まで誕生しているからなのですが、正解はそういった「セックスを神格化する」とか、「否定する」といった極端なことではなく、単純に「正しいセックスとは何ぞや?」という追及なのだと思います。
セックスとは広義で考えれば融合でしょう。
おそらく世界は、そして宇宙は、セックスから始まった。というとイメージしづらいかもしれませんが、誕生というのは何事もセックスありき、融合ありきです。宇宙の始まりから、自分が今ここにいるということまで、そして未来永劫、一貫しているものはセックスでしょう。ですから、真理とはセックス。俗な意味のセックスではなく、心と心のふれあい、何かと何かの融合までの範囲を含めたセックスだと思います。
そして、この光をかざして社会を見てみると、様々な歪みもまた見えてきます。
体をおろそかにすると、心が衰えてくる。どのようにして体を作っていくか、ということがそもそも、平和や幸せといった、人類の大きなテーマに結びついている気がします。