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二〇〇六年のサッカーW杯。僕は友人と連れ立って、隣町にあるスポーツバーに繰り出して、酒を飲みながら試合を観戦していた。
店内は若者を中心に多くの客であふれ、僕らも急きょ臨時で用意してもらった席に腰かけたのだが、今となってはそれが、日本とどこの国の試合であったか、思い出すことが出来ない。ただ、日本がシュートを放った時の店内にまき起こる歓声、逆に攻め込まれた時の叫び声、所狭しと並べられたテーブルの間の狭い通路を、両手に六つも八つもビールジョッキを掲げた女性店員が忙しそうに歩きまわっていたのを覚えている。
僕らの隣には二人掛けの小さなテーブル席があった。当然、その席もすでに先客がいたのだが、二人組の若い女性が座っていた。友人同士らしく、サッカーを見に来たのか、それとも沿道に開けたこの店の熱気に吸い込まれてきたのか、二人で内輪話に興じていた。歓声が起きるとモニターに目をやり、試合が進まぬとみるとまた向き直って、話を始める。
こちらはというと、男二人組である。隣の席に座った女性二人組に気がいかぬわけがなく、隙あらばお誘いして一緒に飲もうと、それとなく様子を窺っていた。その間も客はひっきりなしに店を訪れている。何組もの客が「すいません、今、満席なんです」と店員に言われ、「仕方ないね」などと言っては踵を返していた。
そんな中、一人の若い男が店に入ってきた。男は、店員から「すいません、今、満席でして・・」と断られたのだが、「大丈夫、大丈夫。ここで飲むから」と言って、隣の女性二人の席を指さし、「椅子を一つください」と言った。
その様子を眺めながら、自分は「なんだ、男がいたのか」と思った。爽やかな雰囲気の男だ。仕事仲間だろうか。男は女性二人の知り合いで、いかにも待ち合わせに遅れてきたといった風情だったのである。席の通路側に椅子を一脚用意してもらって、「生一つね」と注文している。
ところが、その様子がどうもおかしい。先ほどまで話に興じていた女性二人が、揃ってポカンとした顔を男に向けていたのである。すぐに女性の一人が口を開いて言う。
「なんですか?」
なんですか?と言われた若い男は、「いいじゃんいいじゃん、一緒に飲もうよ」と言って、運ばれてきたビールをごくごくと飲んでいる。
どうやら、男と女は親しくないようだった。というよりか、互いに見知らぬようである。さらに女性がツッこむ。
「いやいやいや。え?誰?」
誰?と聞かれた男は、しかし全く動揺したそぶりも見せず、「今日は仕事帰り?」「みんなでサッカーを楽しもうよ」などと言い、平然とした顔をしている。
結局、そんな問答を何回か続けた後に、女性二人組も諦めたのか納得したのか、「どうする?」「まあ、いっか」というやり取りを交わした後に、三人で飲みはじめた。
事の始終を横で見ていた自分は大変に驚いた。そんなナンパの方法があったのか!?と思ったのだ。
男は一人だった。この満席の店内で店員に入店を断られながらも、その状況を巧みに利用し、二人組の女性をいともたやすく取り込んだ。自分は「こいつ・・やる」と、半ば凄腕の職人を見るような心持ちで、その後の展開に気を張っていた。
一方、友人はというと、サッカーに夢中でそんなことにはちくとも気が付いていない。自分一人が、サッカーよりも横の席の状況に集中している。三人は「このメニュー、うまそうじゃない?」「あ-そうだね」「頼んでみようよ」なんて会話を交わしながら、楽しげに時間を過ごし、試合を観戦していた。
僕と友人はすでに3,4杯ずつビールを飲み干していた。試合も前半戦が終わり、ハーフタイムになり、やがて後半戦が始まる。
横の席では相変わらず、少し会話してモニターを見る、少し会話してモニターを見る、といったやり取りが続けられ、運ばれてきた料理を二人用の狭いテーブルに並べ、3人で飲み食いしていた。
男は、この後どうするつもりなのだろう。二人を誘って、どこかに出掛けるつもりなのだろうか。酒と熱気。繁華街の若者同士である。男が“この次”を誘えば、二人もきっとついて行くだろう。どこかのナンパ師が言っていた。
「狙うなら二人組だよ。一人だと警戒されるし、三人組はハナから男目的じゃない。二人組が一番成功率が高いんだ」
その場で、あまり事態の進展が見られないので、自分も次第に意識がサッカーへとシフトしていった。ビールのピッチも速くなる。店内では先ほどと変わらず、日本チームのユニフォームを着たサポーターたちが、大きな声を張り上げて盛り上がっている。肩を組んで歌をうたう者があれば、それを横目に会話を楽しむカップルの姿もある。
後半戦も中盤に差しかかった頃、急に男は立ちあがった。どうした、トイレか?と自分の意識は再度そちらに向く。ところが、男は「それじゃ」と一言いって、店を出ていってしまった。
一体、どうしたのだろう。いつの間に喧嘩でもしたのだろうか。女二人を置いて、男一人が店を出ていこうとしていた。訳も分からず、自分はその場の成り行きを見守る。女性二人は、「え、あ、うん」なんて生返事をしていたのだが、男がいなくなったあとの空になった椅子を眺め、お互い「は?」と顔を見合わせた。
何が「は?」なのだろう。したたかに酔った頭で、その場の状況を組み立て直す。一体、何が起こったのだろうか。その間も男は、こちらを振り返ることなくスタスタと店前の道路を横断して去っていく。
女性の一人が立ちあがった。それを見て、もう一人の女性も立ち上がり、二人して店の入り口の沿道に立ち、男に向かって「ちょっとぉ!」と叫んだ。
「ちょっとぉ!」と叫んだ女性は、しかし男の後をそれ以上追いかけることはない。二人で顔を見合わせ、「マジで?」「なんで?」と呟くばかりである。
なんだ、なんだ。一体どうしたのだ。
男はというと、「ちょっとぉ!」と叫ぶ二人に向かって、「ありがとう!」と言いながら、手を振って去っていくのである。
やがて席に戻った二人は、しばらく「なんで?」「どういうこと?」というセリフを繰り返していたのだが、やがて確信的な一言を放った。
「は?あいつの代金、私たちが払うの?」
横でその様子をずっと見ていた自分は、はっきり言って代金のことなど頭になかった。自分が気にしていたのは、巧みに女性二人をナンパした男の、その後の手腕である。
が、男は帰ってしまった。そして、どうやら飲食した代金を置いていかなかったらしい。ということは・・?事態を整理すると、ぼんやりながらも答えが見えてきた。
つまり、答えはこういうことだったのだ。
男の目的はナンパではなかった。まして、サッカーを見に来たわけでもない。男の真の目的、それはタダ酒を飲むことだったのである。熱狂しているこの店内で、適当な席に腰かけ、皆に混じり盛り上がって酒を飲み、代金を払わずそのまま帰る。
飲み逃げをする輩が使う、定番と言えば定番の方法だ。しかし、それを普通、女性二人の席でやるだろうか?しかも、こんなに堂々と。男一人で女性二人の席に腰かけ、タダ酒を飲んで帰る。去り方にしてもこそこそっと居なくなるのではなく、あっけらかんと「ありがとう!」とまで行って、歩いてその場を去っていくのである。
男はすでに夜の町に消えていた。おそらく、3杯ほどビールを飲んで満足し、家に帰ったのだろう。それから、二人の女性もいたたまれなかったのか、しばし無言になって、店員を呼び、代金を払い帰ってしまった。
友人は相変わらず、隣の席で何が起こっていたのか全く分かっていない。サッカーに集中している。自分が興奮し、「おい、見たか!?」と聞いても、「え?なにが」と言うばかりで、料簡を得ないのである。そればかりではない。店員も他の客も、この事態に気付いている人は皆無のようであった。唖然としているのは自分ばかりなのである。
試合は終盤。いま日本が優勢なのか、劣勢なのか、店内には相変わらずどやどやと大きな声が飛び交っている。自分は、騒がしい店内と、空になった隣のテーブルと、男が消えていった先の暗い通りを交互に見つめ、唸った。すげえ奴がいたもんだ、と。