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20110710

右と左の難しさ

【カテゴリ:考察】

歌人の穂村弘さんが、「幼稚園の頃、右と左がわからなかった」と、去年発売されたエッセイ集「絶叫委員会」に書いている。
東西南北はわかった。先生の立っている「こっち」が東と教えられた方角を覚えさえすれば、今日も明日も明後日も東は「そっち」だからだ。
それに較べて、右は謎だった。ころころと変わる。東はいつも「こっち」なのに、右は「こっち」だったり「あっち」だったり、動いてしまうのは何故なのか。
「私には、そのダイナミズムが理解できなかった」と。

大人になるとそういう疑問はすっかり忘れてしまって、幼い子が「右はどっち?」という疑問を大人にぶつけるのを見て「子供は純粋だな」なんて思うけど、考えてみれば自分だって子供の頃は、そんな疑問をたくさん抱えながら、謎多きこの世の中と付き合ってきたのだ。穂村さんの言葉に、自分はなんだか懐かしいようなもどかしいような、そんな思いがした。
右と左は何故難しいのだろう。左右は方角のように固定されたものではないから、右は北でもあるし南でもあるし、また上でも下でもある。左も同じだ。
大人は右と左をどのように理解しているのだろうか。それを考えてみると、さて、自分はどうやって右と左を理解しているのか、よく分からない。というのも、そんなことをいちいち考えたことがないので、どうして、いつの間に、右と左が分かるようになったのか覚えていないのだ。これは自分に限ったことではないだろう。「右ってなんですか?」と聞かれて、明確に答えられる大人が一体どれだけいるのだろう。皆、生活の中で自然に覚えてきたものではないだろうか。それでも人は、右と左を難なく使いこなしているのだから不思議だ。この際なので、その理由を真剣に考えてみることにした。

まず東西南北と上下の定義を確認する。
①東西南北
東西南北というのは、北極と南極を結ぶ地軸が中心になっている。これは太陽や月、星といった天体、陸や海などの地形が指標となるので、これらから方角を判断出来る。誰から見ても北は北だし、南は南だ。埼玉が東京の北にある、ということに変化はない。東西南北とはつまり、地軸の向きを表している。

②上下
上下、とは何だろう。急に聞かれると困ってしまう。例えば「上は頭の方で、下は足の方のことです」という答えがあったとする。しかし、逆立ちをすれば、足が上で、頭が下になるので、これは正確な答えではない。考えていくと、下とは物が落ちる方、つまり重力に沿って地球の中心に向かう方向ではないだろうか。上はその逆で、地球の中心から離れていく方向であろう。突き詰めていけば、上下とは、重力に関係していることが分かってくる。上を行けるところまで行って、無重力の宇宙に出てしまえば、そこにはもう上が無い。上下とはつまり、重力の向きを表している。

では、右と左はどうだろう。
例えば目の前に二つのボタンがある。右のボタンと、左のボタン。ところがある日、右のボタンが壊れてしまった。残っているのは、左のボタン一つだけである。と、こういう状況になった時、左のボタンとは、すでに左のボタンではない。ただのボタンである。
また、目の前に二つのボタンが並んでいた。右のボタンと、左のボタンの二つだと思っていた。ところが、左のボタンの左(ややこしい!)にもう一つボタンが隠されていた。ボタンは全部で3つあった。となった時、それまで左のボタンだったものは、真ん中のボタンに変わる。
左右というものは単体では存在できないもので、右に対して左があり、左に対して右がある。右翼がなくなれば、左翼は左翼でないし、左翼がなくなれば、右翼は右翼でない。この左右の概念を作っているのは「中心」の存在だ。どうやら左右の難しさは、この「中心」の変化にあるようだ。右翼、左翼の例でいえば、その中心にあるのは「天皇制」である。「天皇制」があって、初めて右翼と左翼は右と左になる。
ボタンの例で言えば、ボタンが2個ある、という時点で、大人は無意識のうちにその2つのボタンの間に線を引いている。その見えない線を中心にして、これが右、これが左と言っている。ボタンが3つある時は、間のボタンに中心を置いている。だから、右のボタン、左のボタン、それから真ん中のボタンという認識をする。これが4つなら、中心はまたずれて、右のボタン2つ、左のボタン2つ、という言い方になる。これは大人同士なら、言わずとも理解できる、いわばツーカーの事実だ。ところが子供は、大人のようにその中心の変化についてこれない。そうして中心を見失うから、子供は「右がどっちで、左がどっちか」わからなくなるのであろう。
大人でも、そういうことはある。向かい合った人と話をしている時に「トイレは右です」なんて言われると、それが相手から見て右なのか、自分から見て右なのか、一瞬判断がつきかねることがあるが、これは中心が相手にあるのか、自分にあるのかが不明だからだ。
だから普通、説明する側は「私から見て・・」とか「あなたから見て・・」という説明を一言つけ足す。会話の中で左右は、「あの青い屋根の左にある看板」とか「今、猫が通った道の右にある側溝」といった言い方で使われる。東西南北や上下と違って、左右は何に対しての向きかが固定されていない。だから、何を中心にしているかの説明が不可欠になる。そう考えると、なるほど、子供が右と左の劇的な変化に混乱するのも頷ける。

ちなみに自分はつい最近まで、穂村さんとは逆で東西南北が苦手だった。長年、それが自分の中でも謎で、周りの大人が初めての土地でも「ここから北に行って・・」とか」「こっちが南だから・・」とか会話の中で使っているのを聞く度に、「コンパスもないのに、どうしてこの人達は、そんなにはっきりと方角が分かるのだろう?」と思ったものだった。
最近、宮崎に住んでいて、方角がよく分かるようになった。というのは、宮崎は地理的に海が東になる。だから海を背にして立てば、正面は西である。とてもわかり易い。それで、ああ、なるほど、と思ったのだが、自分が生まれ育った埼玉は、関東平野のまっただ中で、だだっ広い平原に、海もなければ、周りは似たような山々がうっすらと遠景にあるぐらいで、川は蛇行して流れている。つまり、東西南北の指標とすべきものが少なかったのだ。
きっと大人たちは、その少ない情報を駆使して方角をはかっていたので、どの土地に行っても、少ない情報で方角が読めたのだ。子供の自分にはそれが理解できなかった。
同じ子供でも、環境による理解の差はきっと大きいだろう。

青空の鳥

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