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前回、弘法大師空海のことについて触れた。
ので、せっかくだから今回はちょっと弘法大師について書こうと思う。
本当は弘法大師ではなく、空海、と書きたいのでけど、以前、鹿児島にある真言宗のお寺で弘法大師の話をしていた時に、ぼくが「そういえば、空海は・・」みたな発言をしたところ、面と向かっていたその寺のお坊さんにパシッと頭をはたかれ、
「弘法大師と言いなさい。空海というのは、高澤、と言っているのと同じで、呼び捨てになる」
と言われ、そんなことがあったので、まあ、世間一般では空海は空海が通り名ではあるのだけど、ここでは弘法大師と呼ばせていただきます。
今、ちょうど東京国立博物館で「空海と密教美術展」というのを開催していて、密教の法具や経典、国宝である弘法大師が著した聾瞽指帰(ろうこしいき)などが展示されていて、もうすでに来場者が50万人を超え、入場40分待ちの大盛況となっているらしい。先日も仕事先でお世話になっている知り合いがそれに行ってきたようで、大変な人、人、人だったそうだ。
なぜに弘法大師がそれほど人気なのかというと、それはカリスマ性や神秘性の賜物なのだろうけど、一つには天皇家とのつながりが深いということもあるだろう。もともと、仏教を日本に広げたのは、大化の改新(乙巳の変)で有名な蘇我氏だといわれているが、そこから発展した仏教界は必然的に「鎮護国家」という、簡単にいえば天皇のボディーガードみたいな役目を抱えており、こういった縁により今でも高野山と天皇家は付き合いがあるのだそうだ。例えば、弘法大師は真言宗高野山奥の院の霊廟で今も衆生救済のために禅定を続けているという伝説があるが、天皇家はこの禅定を続ける弘法大師に対して毎年着替えの衣服を今でも贈っている。
弘法大師は9世紀に活躍した人であり、当時、すでに日本で主流となっていた儒教に疑問を抱き、この矛盾に対する答えを探しまわって密教にたどり着いたといわれている。
儒教とは、言わずと知れた孔子を祖とする教学・学問であり、江戸期日本においては朱子学として繁栄するなど、日本には縁の深いものである。現在でも、小学校では道徳の授業を取り入れているが、これは儒教からの名残り、というか影響があるだろう。善悪の観念について説いたものを教えているはずだ。
この道徳なのだが、ぼくは以前こんなことを考えたことがある。
「嘘をつくな」「誠実に生きよう」「人にやさしく自分に厳しく」といった道徳を追求していくと、やがては必ず自己犠牲の精神に行きつく。これはキリスト教も同じなのだけど、「汝の衣を与えよ、汝のパンを与えよ」といった考え方は、これ自体は紛れもなく素晴らしいもので、もしも世界中の人々がそのような生き方をしたら、この世は確実に平和になるのではないか、そう思う。
だが、仮にもし、その中に悪人が一人混ざっていた場合、どうなるだろう。
100人の村に隕石が落ちてきた。その村から逃げ出す手段は一つ。バイクを使えば逃げ切れる。ところがそのバイクが一台しかない。そこで村人たちはバイクを譲り合うのだが、より善い人ほど先にバイクを譲るので、助かる可能性は低いだろう。
善人ほど先に逝く、というのはよくいう話で、結句、残る人間は“悪人”とまで言わずとも、自己犠牲の精神に欠けた人物が残っていくのではないか。そうすっと、どういうことになるかというと、善人ばかり先に死んで、この世から善人が消えていき、より悪人ばかりが残ることになり、「世の中は良くならない」ということになる。
わかりやすい例でいえば、電車の中を思い出していただければいい。善人ほど立ち上がって席を譲っているではないか。座って寝たふりを決め込んでいる人間が結句、楽をしている。そして、そういう人間に限って「いや、寝たふりというのも結構疲れるのだよ」なんつって嘯くのである。
これを称して「正直者がバカを見る」というのであって、これっておかしな話だけど、道徳では、世の中が良くなる可能性が実は極めて低いのではないか。しかも、すべての人が善人になった場合、譲り合いが終結しないために100人全員が死んでしまうことだってある。(善人は席を譲り合った結果、横から来たおばさんに席を取られてしまうのである。ああ、それでも善人は微笑んでいる)
本来は善人が生き残らねばいけないのだが、その善人が自己犠牲の精神に富んでいては、世の中は良くならない。これってすごい矛盾じゃないだろうか。
もっとも逆に、それでは全く自己犠牲精神のない世界はどうなのかと言えば、これは動物の世界と同じである。畜生道だ。
だから、儒教やキリスト教が唱える道徳の必要性もまた必ずあるわけで、道徳自体が悪いというわけではない。礼儀をもって人と為す。また、「すべての悪人は善人に変わる可能性を持っている」という前提があるからこそ、人間の更生を信じるからこそ、世界は輝いているのだという理屈もまた一理あるのだ。だから、考えなければいけないのは折り合いなのではないか。どこまで道徳を追求するのか。さて、一体どこまで追求すればいいのか?
と、まあ、自分は道徳や自己犠牲の精神に対して、そんなことを考えたことがあるのだけど、弘法大師もどのような矛盾を抱いたのかは知らないが、道徳では人を救えないという結論に至り、「それでは衆生を救済する方法は何なのだ?」という真理の探究に向かったのである。
さあ、このあと一体、弘法大師はどのようにして衆生を救済する方法を編み出したのであろうか。その答えが、密教の中にあるわけだけど、これはまた話が長くなるので気の向いた時に書きまするるるる。では!(悪人面して)