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分け入つても分け入つても青い山 山頭火
分け入つても分け入つても青い山は現代でも結構ある。
田舎の山道を歩きながら、何度かそういう場面に出くわしたこともある。標識のない三叉路。青い木々に囲まれて、道の先までは見通せない。
どちらが正しい道なのか、折れた枝を一本手に取り、空に向かって投げてみる。枝の向いた先へ進もうというわけだ。進んだ道の先がどうなっていたか、もう覚えていない。木の幹をかくすほどに猛た葉と地面から伸びあがる草が、ただただ、青かった。
四国八十八カ所のお遍路をしていた時に、焼山寺というお寺に向かう12kmの山道があった。
高低差300mほどを登ったり下りたりする。八十八か所中、最も厳しい道と言われ、途中、転んだり挫けたりする人が多いことから、「へんろころがし」と異名がつく道だ。
途中、ごつごつとした岩肌の道があるかと思えば、両脇が崖となって人ひとりしか通れないような尾根など、山越えの登山をしているような感覚になる。急に視界が開けて、山から見下ろす集落の景色など、感動的な場面に出会ったりもする。
この道もまさに「分け入つても…」も世界で、だけども、こんな山道の中だというのにお墓をポツポツと目にするのは奇妙だった。これはどうやら山道で行き倒れた人たちのお墓のようだった。誰かが後から建てたのだろう。民家はおろか舗装された道も電柱もない、まったくの山道の中。
当時、こんなところまで墓石を運ぶ人がいたのだろうか。きっと名もない僧侶や善男善女が建立したのだろうが、骨の折れたことだろう。頭が下がる。
さて、どちらへ行かう風がふく 山頭火
山頭火その人は放浪の人だった。放浪その前に苦境の人だった。10歳の頃に母を自殺で亡くし、20歳のころ姉を亡くしている。30代、実家の酒造経営がうまくいかなくなり、破産。父は行方不明、弟は首をつってしまう。のち、妻子を捨て、42歳の頃、禅門に入った。
行乞放浪の旅に出たのは44歳の時。その第一句が「分け入つても分け入つても青い山」だった。
思えば、この句は山頭火自身の生涯のようでもある。山頭火の運命は翻弄と放浪を繰り返し、どこまでもどこまでも青い山が続いている。きっと歩き続けねばならなかったのだろう。
「さて、どちらへ行かう風が吹く」
それでも、立ち止まって考える。どちらへ行っても続くのは青い山だ。
山頭火もあるいは枝を空に投じてみたりしたかもしれない。そしてやはり、青々とした道を行ったのだろう。46歳の頃には四国巡礼の旅にも出ている。
昭和15年、山頭火58歳。寺の納屋を改造した「一草庵」にて酩酊状態になり、心臓麻痺によりこの世を去った。亡骸は共同墓地に埋葬されたが、その後墓碑が立て直され、今では墓参の観光客で賑わっている。