真剣師小池重明/団鬼六 鬼才と奇才のぶつかり合いある日、Wikipediaを徘徊していたら、ひとりの男の項にたどり着いた。小池重明だった。その生い立ちの面白さと言ったら、ない。ニセ傷痍軍人として生活する父と、ヤミ娼婦として働く母のもとに生まれ、高校中退と同時に風俗店の従業員として働きながら、将棋の腕を上げていく一人の真剣師。
やがて新宿の殺し屋と呼ばれ、アマ最強の称号を縦にし、幾多のプロを打ち負かすようになる小池重明。一見、痛快なサクセスストーリーのようでもあるのだが、その裏には常に女と金が絡んだ彼の、人生に対しての堕落さがつきまとっていた。
将棋以外は全くダメ。暴力事件、寸借詐欺を繰り返し、棋界から追放された彼は、もう二度と将棋は打たないと決意する。やがて競馬に手をだすものの無一文となり、土工の日雇い人足へと人生を追いやったかと思えば、二年後に決意を反故して突然のカムバック。もう、全くでたらめな生き方。でたらめなのに、将棋だけは滅法強い。団さんが惚れるのもうなづけるのだ。この男、おもしろすぎる。
この国のかたち1/司馬遼太郎 日本とは?言わずと知れた著者の晩年の随筆集。
戦前、戦中にかけて青春時代を送ってきた著者は、作家になった理由をこう述べている。
『なぜこんな馬鹿な戦争をする国に生まれたのだろう?いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた』
そうして、それから数十年が経ち、日本はまた様変わりした。戦争のない平和な国へ発展したはずの日本。しかし、どこかがおかしい。そんな思いを抱きながら、著者はもう一度日本を振り返り綴る。
『価値の多様状況こそ独創性のある思考や社会の活性を生むと思われるのに、逆の均一性への方向にのみ走りつづけているというばかばかしさ。これが、戦後社会が到達した光景というなら、日本はやがて衰弱するのではないか。』(この国のかたち1/江戸期の多様さより)
日本を想い、日本を憂え、日本と共に生きてきた著者の絞り出すようなアフォリズム。
司馬さんが亡くなられて15年。もしも司馬さんが生きていたなら、今の世の中をどう見るのだろうか。聞いてみたい。
本著には24編の随筆を収録。文庫版ながら、通常よりも文字が大きく読みやすい作りになっている。
完全復活祭日本武道館/忌野清志郎 なんて素晴らしいDVDなんだろう僕が生まれた1982年、清志郎はすでにRCサクセションで全国を駆け回るロックスターとして日本にいた。
僕がキヨシローと出会った学生時代、キヨシローは保守的なテレビ局やラジオ局から恐れられる存在で、ひっそりとニューアルバムの制作に明け暮れているようだった。
僕が社会に出て働きはじめた頃、キヨシローは「KING」という名盤を発売した。
やがて「KING」は「GOD」になって、JUMPという曲を初めてラジオで聴いたとき、ぼくは仕事中の軽トラの中で泣いた。
そしてキヨシローはGODから一人の「夢助」になって、しばらくお休みしていたんだ。
ぼくは相変わらずの日常を淡々とこなしていた。
いつかきっと帰ってきてくれると信じていた。
「やれやれ、ブルースはまだ続いてるってことだ」
少しだけ顔を出して、みんなを安心させて、キヨシローはまた旅に出てしまった。
果てしないブルースの旅を、みんな歩いている。
けれど、いつでも、CDをまわせば、DVDをまわせば、真っ暗だったはずのトンネルに、ぽっと明かりが灯る。そこが本当は愛に満ちたワンダーランドなんだってことを、キヨシローは教えてくれる。
ありがとう、キヨシロー。本当にありがとう。愛してます。
聖の青春/大崎善生 夭逝のカリスマ賭け将棋を生業とする伝説の真剣師、小池重明。新宿の殺し屋と恐れられ、数多のプロ棋士を斬って捨ててきた男が、ある日、日暮里の将棋センターで一人の中学生に苦しめられていた。
中学生の名は、村山聖。東京・千駄ヶ谷で開催された中学生名人戦に出場した帰り道のことであった。
5歳の時、腎ネフローゼを発病し、生死の境をさまよった彼は、病室で同じ年頃の子どもたちがなすすべなく死んでいく様を、やはりなすすべもなく見つめていた。そんな環境の中で、父親が暇つぶしに持ってきてくれた将棋にどんどんとのめり込んでいく。小学生、中学生と、いつ再発するかもしれない病気と騙しだまし付き合いながら、やがて、地元広島で敵なしとまで言われるようになった村山聖。そして、彼はそれが元々彼の決められた運命だったようにプロの世界の門をたたく。当時、破竹の勢いで彗星のごとく将棋界に現れた若き名人、谷川浩司。
「谷川を倒す」
ただそれだけを目標に村山は敢然と自分の道を突き進んでいく・・。
将棋ファンでなくても、是非読んでほしい名作です。出来たら、団鬼六さんの「真剣師小池重明」も併読して頂ければ、もう、きっとあなたも将棋がこよなく好きになるはず。
天才バカボン/赤塚不二夫 これは天才バカボンのナイスな名作選ですわしは昔、天才バカボンの主人公はバカボンのパパだと思っていたのだ。
バカボンのパパをバカボンというのかと思っていたのだ。
ところが、バカボンのパパはバカボンのパパだから、主人公はバカボンのパパの息子であるバカボンということになるのだ。
サザエボンも本当はあれはサザエボンのパパと言わなきゃダメなのだ。
まちがいなのだ。
けれども、漫画を見ていると、どうしても目立つのはパパの方なのだ。
だから、これを機にこの作品は『天才バカボンのパパ』というタイトルにするといいのだ。
これでいいのだ。