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群馬県、浅間山に『鬼押出』と呼ばれる観光スポットがある。
これは江戸時代(天明三年)に浅間山が大噴火した時の溶岩が固まったものだ。
現在でも浅間山は、気象庁がランクAの活火山に指定しているが、この天明の大噴火以来、浅間山は大きな噴火を起こしていない。
天明の大噴火が起こったとき、その降灰はすさまじく、浅間山の周辺はもちろん、関東一円に及んだ。
それはぼくの地元・埼玉行田も例外ではなかったらしく、地元の古文書にこんな記載がある。
「(前略)二、三日降積リ厚弐、三寸也、右六日晩より八月迄振動雷電稲妻厳不徳事ヲ日中闇夜之ことにいて、昼行灯灯前後不分事共也」(埼玉県立文書館所蔵 長谷川家文書より)
2,3日降り続いた降灰は、地表で厚さ約6~9cmに積もり、空は日中でも夜のように暗く、昼に明かりをつけても、前後が分からないような状態であった。
浅間山から直線にして100km弱離れた北埼玉でもこのような状態だから、噴火がもたらした影響は、もしくは海べりの農村、漁村にまで達していたのかもしれない。当然、農作業などできるはずがない。日射量が低下し、それ以前から続いていた冷害が悪化した。畑や田んぼの農作物、稲の類は灰をかぶって全滅に近かっただろう。農民たちは一気に食糧難に陥り、自分たちの食料よりも優先していた年貢が納められないという事態にまで発展した。世にいう『天明の大飢饉』の発生であった。
日本の近世史上最大といわれるこの飢饉では東北から関東にかけて、数万の人間が餓死(実質、数十万ともいわれる)したと云われており、噴火による火砕流や噴石など、直接的な原因で亡くなった人間の数が1400人とされているから、それを大幅に上回る数の人間が二次災害で亡くなったことになる。これには米価の高騰など当時の藩政が大きく関わっているのだが、何よりも農民という人間がそれだけ軽く見られていた証拠だろう。同じころ、例えば藩勤めの武士が餓死したという記録は残っていない。
年貢の未納、と一言で言っても、これもただ事ではなかった。農村というのは当時、どこもそうなのだが“ムラ”という連帯責任の中で運営されていた。同じ村の中で、一人の人間が年貢を未納すると、周りの人間がその分を補わなければならなかった。しかし、それも簡単なことではない。米を出せないとなると、自分たちが食べる分はもとより、牛がいれば牛を売りに出して金を作り、娘がいれば娘を奉公に出して金を作って、それでもどうしても足りない時に、未納仕方なしとなった。ところがこれもまた、それで免罪というわけではなく、この分の米というのは貸付である。来年、借りた分の米を藩や農家に返さなければないけなかった。けれども、今年払えぬ米が、来年2倍も払えるものか、馬鹿野郎(というのは僕の心の叫びだが)、ここで農家は頓挫して、するとどうなるかというと、もう逃亡するしかなかったわけである。三十六計逃げるに如かず。
逃亡。すなわち、その村の者ではなくなる。すると村にはお触れがまわり、見つかれば、拷問である。この当時、そうして村を逃げ出し、居場所を失った農民が数多くいた。家を捨て、娘を苦界に追いやり、そうして食う米もなく、他の村へ行けるわけでもない、時々あまりの辛さに捨てた村へ戻って捕まる者もあったそうだが、多くは死ぬか、人のいない山へこもるか、また、そういった人間の集まりを独自に形成していくか、そのどれかであった。
村ではそれぞれ人別帳というものがあり、これが現在の戸籍に当たるわけだが、村から出奔した農民は、この人別帳から外された。そして、戸籍のない人間になったのである。この戸籍をなくした農民が『非人』と呼ばれた。もともと非人と呼ばれる人たちのルーツは別にあるのだが、中にはこういった人たちもまじっていたのだ。また、ヤクザと呼ばれる人たちの中にも、自然とこういった逃亡者がまじっていったのであった。(と、ここら辺の話が前々回の暴力団排除令の話にもつながっていく)
以前も書いたが、ぼくの先祖は農民だった。そして江戸時代、8割の人間が農民だった。そして、当然自分の先祖はこの天明の大飢饉を経験しているだろうし、おそらく東北、関東に住んでいる多くの人の先祖が、同じくこの災害を経験しているだろう。そんなわけで、このことも自分なりに調べているのだが、これとて、たかだか二百二、三十年前のことだ。
先日、日本地震学会が東北地方太平洋沖地震に関して「地震学の敗北」という異例の声明を出したが、まだしばらく人間と自然の闘いが続くのだろう。浅間山の噴火も周期的に起きている。ぼくは情けなくも、この歳になるまで自分の地元は関東平野だから火山には関係ないやと思ってきたけど、そうではなかったのだ。過去を知るというのは大事なことだ。
精度というのは、結局そんな情報の集積だ。過去に向き合わなければ、精度は高まらない。しかし、それでも「正確」ではない。精度が高い=正確ではない。社会人としても、個人としても、自分がやらなければいけないことは実はまだまだ山積みなんじゃないだろうか。昔を学ぶほど、そんな気がしてくる。