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20120429

呪文について2

【カテゴリ:日常】

前回、呪文について書きました。呪文とは意外と身近にあって普段から何気なく使っている、呪文とは言葉の力のことだ、と。
さて、しかし呪文は言葉だけのものではありません。
子供のころ、親が「痛いの痛いの飛んで行け」をしてくれた話をしましたが、この時、手を空に向けて投げ出す様子について書きました。実はこの「手を空に投げ出す」という行為が非常に大事です。言葉だけではなく、動作も含めて呪文というわけです。
例えば、忍者という職業がかつての日本にありました。
忍者は様々な忍術を使いますが、その忍術には一つ一つ呪文があり、この呪文を口中に唱えながら術を使います。この時、呪文を唱えながら、手をある特殊な形に組みます。「忍者ハットリくん」などで見覚えのある方もいるかもしれませんが、右手の人差し指と中指を左手で包み、その左手の人差し指と中指を立てる、というアレです。ハットリくんならば「ニンニン」という場面です。
この特殊な形に組んだ手のことを「印(いん)」と言います。
印とは仏教用語ですが、その中身は仏教にとどまらず幅広く社会に浸透しています。みなさんもお正月に神社へ初詣に行かれた際、「今年もいいことがありますように」と願い事を唱えながら、手を合わせると思います。この手を合わせた形のことを合掌といい、合掌とは印の形の一つです。つまり、初詣での願い事とは呪文であり、願いを唱えながら手で印を結んでいることになります。
おそらく、ほとんどの人がそんなことは意識せずにやっていると思いますが、考えてみれば不思議なことです。これだけ文明が発達した社会で、現代人が忍者と同じことをやっているわけですから。しかし、実はこれはもっともな話でもあり、効果があるから皆それをするわけです。「手を合わせてお願いする」ということに効果がなかったら、誰もそんなことはせず、いつか廃れていきます。
では一体、その効果とは何でしょうか?何故、呪文がこのように言葉と動作のセットになっているのでしょうか?キリスト教もそうですが、何故、我々は手を合わせながら願い事やお祈りをするのでしょう。
答えから言ってしまえば、これは簡単です。要は自己暗示です。願い事である「言葉」を自分に言い聞かせること、そしてそれを動作によって強固なものにすること。合掌とは云わば自分自身との「指切りげんまん」の効果を持っているわけです。小指を絡め合わせるかわりに、合掌をする。これにより、自己催眠をかけていくわけです。目標を忘れないということ、そしていつかそれが達成できるということ。願い事とは、神や仏との約束ではなく、自分自身との約束なわけです。
ジョン・レノンは「イマジン」の中で「想像してみよう、天国も地獄もない。想像してみよう、僕らは一つだと」と歌い、「想像すれば世界は変わっていく」と説きましたが、人は想像することで前進してきました。想像することから火を使うようになり、二足で歩きだし、空をも飛び、やがて宇宙に出て、ケータイで声を電波に乗せるようにまでなったのです。
想像することは大事です。
そしてもう一つ大事なことがあります。それは、想像を忘れないことです。忘れては意味がありません。そんなこと当たり前だと思うかもしれませんが、実際に多くの想像というのはそのまま忘れ去られていきます。
「なぜ、忘れてしまうのだろう?僕は駄目な奴だ」
と昔の人も思ったかもしれません。どうしたら忘れないだろう、どうしたらいつでもそれを覚えていられるのだろう?そう考えたわけです。
そこで印が生まれました。例えば合掌しながら「世の中が平和になりますように」と願います。その合掌の中に思いを閉じ込めるわけです。合掌するたびに「世の中が平和になるように」という願いを込めます。それを繰り返すことが、物事を実現に向かわせる力になります。
昔の人というのは、そういった力が人間に備わっているということを自らの中に発見していったわけです。これは本当に偉大なことだと思います。すでに何千年と現代まで脈々と受け継がれているわけですから、普遍といっていいでしょう。

さて、ここで少し話を変えますが、この呪文というのは宗教の中で発見され生まれてきたことです。宗教の本来の目的とは「いかに人が健康で平和な世の中を築くか」ということと「そのための方法論」の追求です。
僕が以前「宗教について」という話でここに書いた「宗教の純粋な部分」というのは、こういうことです。宗教の科学的で合理的な部分。上に挙げた「印」についていえば、「パブロフの犬」で有名な条件反射の利用ともいえるでしょう。ベルの音でよだれを垂らす犬と、印によってそこに閉じ込めたイメージを思い起こす人間は同じです。
ところが宗教という言葉は、もうすでに世の中に使い古されてしまった感があります。そればかりか悪いイメージまで持つようになり、今や「勧誘」「金儲け」「洗脳」といった言葉まで連想させます。
どうしてこのようなことになったのでしょう?
最初に宗教の中でこのようなことを考えた人というのは、世の中に悪いものを残そうなんて思ってやってはいないのです。「どうやったら、よりよい世界が出来るか?」と真剣に考え、人間の力を増幅させる方法と真理を発見していきました。それを悪用し、宗教に悪いイメージをつけていったのは後世の人間です。
呪文を知った時、例えばそれで「あなたは癌になりますよ」と悪い言葉を使い、人を不安に陥れ、「神を崇拝すれば、あなたは助かります」と騙し、金を稼ごうという人間も出てきました。また、宗教の組織力に目をつけ、その力を欲するために「宗教」という言葉を振りかざす人も生まれました。それがそのまま現代の「宗教」に対するイメージになってしまった。これは後世の人間の責任であり、すなわち我々一人ひとりの責任でもあります。今に至る後世の人間の怠惰がなしたことなのです。
宗教とは本来、昔の偉大な人たちの知恵であり、後世へのプレゼントであり、今を生きる我々にとっての大切な宝物です。
これは僕の勝手な意見ですが、「宗教」という言葉がもう既に本来の意味を失っているのならば、源の学問、ということで「源学」という言葉を新たに作ってもいいのだと思います。現代の「宗教」をザルにかけ、そこに残ったキラキラしたもの。源学。その方が言葉としても的を得ているかと思います。
昔の人は、人間がよりよく健康に暮らしていける方法をこれでもかというぐらい考えて、煮詰めていきました。その一つが呪文です。呪文には人を救い自分を救う力がある。現代では医学や科学の発展により、病気になったら薬というものがあります。ところが、病は気からというように、いくら医学が発展しても心が病むような社会システムだったら、病気というのは減っていきません。現にこれだけ医学が発展した社会なのに、現代病というのは日を追って増え続けています。アルコール依存、ギャンブル依存、ニコチン依存といった依存症も増えている。これって、すごくおかしいことだと思いませんか?医学は発展しているのに、何故病人が増え続けているのか?病院に行けば、病院というのはいつも混み合っています。
昔の人が偉いのは、病気を治すのに薬だとか、最新の機械だとか、そういった他力本願ではなく、「痛いの痛いの飛んで行け」というたった一言に人間の自助能力を上げる効果を発見し、こういった言葉の掛け合いにより心が健全でいられることを見抜き、そして病気に負けない体とたくましい心を作り上げていったということにあります。
逆に言えば、そりゃ、薬も無い時代です。でも、だからそのかわりに言葉の力を発見し、それを呪文という形にまで昇華できた。それにより無駄なく自然に健康な心身を獲得しました。
昔の人が現代をのぞいたら、こう言うかもしれません。
「健康になるのに、なぜ薬が必要なんだ?言葉一つあれば、我々は幸せじゃないか」
健康の土台とはおそらくそんなものであり、これを失った時に、いくら腕のいい医者がいても世の中は病気だらけになってしまうのではないでしょうか。

忍者ハットリくん

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