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20120514

呪文について4

【カテゴリ:日常】

今回は呪文について、違った視点から見ていきましょう。
前回、密教が持つテーマである「教王護国」について触れました。さて、では「教王」とは何でしょうか?この言葉の意味について考えます。
教王とは「王を教化する」の意味ですが、これはどういうことか簡単に言うと、王が王として学ぶべき学問を教える、つまり密教は天皇に帝王学を教えると言っているわけです。帝王学という言葉の意味を広辞苑第6版で引いてみると
①帝王になる者がそれにふさわしい素養や見識などを学ぶ修養。
②社長など人の上に立つ者に求められる修養。
とあります。
そこで呪文なのですが、呪文について1,2,3で話しました呪文の効用とは、人を活かし、人を殺すことです。これは言い換えれば、「言葉によって人を操る」ということでもあります。良くも悪くも、人を自分の言葉に従わせてしまう。優しい言葉だったり、きつい言葉でもって、人を動かす。時には叱咤激励し、時には過酷な言葉を浴びせる。そうやって言葉によって人を縛り付け、言葉によって人を導く。それが呪文です。つまり呪文とは、それ自体がトップの学ぶべき学問、帝王学なわけです。
上に立つ人間というのは、これを駆使して演説もすれば、商売もし、国事の交渉をしたり、民を指導したりします。その中で人を活かし、時に人を殺します。トップがやるべき仕事というものを考えた時、言葉が使いこなせないと到底務まりません。それもただの情報としての言葉ではなく、人を動かす呪文としての高次な言葉です。
ですから密教は天皇に対して「教王」という姿勢をとりました。密教はその技術を持っていたわけです。
では今度は、なぜ密教がその技術を持っていたか?ということですが、これは歴史的な話になります。
ご存じのように、仏教というのはインドから発生しました。インドというのは古代、ドラヴィダ人という人種が暮していた地域なのですが、ここにアーリア人が侵攻してきて、現在のインドの基盤を作り上げました。この時に、アーリア人はバラモン教という宗教を組織し、インドの支配と統治を始めます。現在のインドに根強く残っているカースト制度はこの時からの名残です。
そのバラモン教からヒンドゥー教が生まれ、ヒンドゥー教から仏教が生まれました。密教とは、正式には秘密仏教という名称であり、仏教の一つだとされています。
仏教は後にチベットやインドシナを通り、中国に入ります。そして中国から朝鮮半島、日本へと渡ってきました。
ですから、密教とは根本的にヒンドゥー教、そしてバラモン教の性質を受け継いでおり、帝王学としての側面を持っています。それが呪文という、人を支配するための技術として残っているわけです。
話が変わりますが、僕は以前、旅をしている時にふとこんなことを思ったことがありました。
「小学校や中学校では、なんで帝王学を教えないんだろう?」
というのは、せっかくこの世に帝王学があるのに、特定の人だけが帝王学を受けるのはずるいじゃないかと思ったからなんですが、まあ、考えてみればそれは当たり前だった。帝王だけが受けるから帝王学なのであって、全員が帝王学を受けたら世の中は大混乱になるわけです。
そこで次に思ったのが、「じゃあ、小学校や中学校で習う学問とは一体何なのだろう?」ということでした。
これは答えから言って、帝王学の逆です。つまりは平民学。平民学なんていう言葉はないのですが、あえて言うならばそうなるでしょう。「あ、なるほど」とこの時、自分は腑に落ちたのですが、日本の義務教育とは王の学問ではなく、民の学問を教えていたわけです。その基本的学習の内容は、『第三の波』のアルビン・トフラーの言葉を借りていえば「時間の励行」「従順」「機械的な反復作業」の3本柱になります。これは「善良な労働者」を育てることをモデルとしています。我々は善良な労働者になるための均一な教育を義務教育によって受けているわけです。
「時間の励行」を例に取って話しましょう。
現代人は、大変時間に厳しく管理された中で仕事をしています。ところが、日本人が時間に追われながら仕事をするようになったのは、そう古い歴史ではありません。江戸時代など、時計がないのです。日の昇り具合で集合して、日が暮れれば外はもう真っ暗なわけですから、時間の感覚というのはアバウトなわけです。
世界的に時間というものに重きが置かれるようになったのは、産業革命からだと言われています。産業革命以後、工場で働く労働者が増えたため、彼らを統一する目的で時間というのは分刻み、秒刻みに細かく管理されていきました。日本が開国して後、西洋の産業制度を模倣していく中で、「時間の励行」という労働者システムが日本にそのまま移入されました。子供たちがよりよい労働者となるように、時間の管理を学校で教えたわけです。
ですから、我々にはごく自然に「遅刻は罪だ」という意識がありますが、本来、社会というものは時間などそれほど細かく区切らずともやっていけるし、個人も幸せになり得るのです。沖縄人が時間に執着しない「沖縄タイム」というのはよく聞く話ですが、それで喧嘩する沖縄人というのは聞きません。逆に時間に細かい人ほど、怒りっぽくなる。幸せから遠ざかるわけです。それなのになぜ、「時間の励行」を学校で教えるのかといえば、学校教育が産業優先だからです。
「よく勉強して、良い学校に進み、大きな会社に入って、立派なサラリーマンになる」のが、日本のスタンダードモデルとなりました。しかし、これも冷静に考えてみれば、立派なサラリーマンになったところで、それが=個人の幸せではありません。生活が安定すると言いつつも、良い会社に入るために東京に出て、家族と離れ離れになったり、仕事に忙殺されて家庭を守れなかったりと実際には色々な弊害が出てきたわけです。さらにこれはバブル崩壊と同時に終身雇用のシステムが崩壊していき、フリーターという層の人間を急増させました。
昨今、世間的にスローライフやゆとり教育、個性教育といったものが叫ばれるようになった背景には、この産業優先の教育システムに対する不信感が募ったのも一つの理由でしょう。「時間に囚われずに生きたい」と願う人の方が本来自然なのだと僕は思います。
最近では就職活動に失敗して自殺する学生が増えているそうです。統計では2007年の2.5倍になっているそうですが、なぜ彼らは就職に失敗して自殺を選ばなければならなかったのか?
それを考えた時、彼らが何か変な固定観念にかかっていたのではないか?という疑念を感じずにはいられません。いや、彼らだけでなく、自分を含めた多くの人間が実はこの変な固定観念、既成概念、言ってしまえば誰かの帝王学という呪文に縛られながら生きているのではないか?という気持ちが僕の中にポツッと生じるのです。

沖縄の風景

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