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前回、呪文が帝王学であるという話をしました。
呪文とは恐ろしい学問です。そして言葉とは不可思議なものです。
例えば、「愛してる」の一言には人をうっとりとさせてしまう力があるし、「役立たず」の一言には人をずしんと打ちのめしてしまう力があります。ところが、この言葉を冷静に考えた時、「愛」が何であるかは人によって答えが違うし、「役立たず」なんて、別に自分が何の役に立たなくとも良かったりするものです。それでもそんな言葉に対して、人は一喜一憂してしまう。心が揺さぶられてしまいます。何故でしょうか?
話がずれますが、僕は小学生の頃、「お世辞」の意味がわからなくて母親にこう問うたことがあります。
「お世辞っていうのは嘘のことなんでしょ?大人はどうして、そんな嘘をつくの?」
この問いに母親は笑いながら、こう答えてくれました。
「嘘だと分かっていても、そう言われれば気持ち良くなるんだからいいじゃない」
その時は「そういうものかな。それが嘘だと知ったらかえって気持ち悪くなるんじゃないか」と思ったのですが、この母親のセリフは「言葉の不可思議さ」の本質をとらえていると思います。
言葉とは、本来そういうものなのでしょう。「痛いの痛いの飛んで行け」も痛さなど飛んでいくはずがないのだから嘘には違いありませんが、そう言われると心が楽になる。つまり嘘も、当人の中では本当になり得るわけです。
嘘が本当になる。
これは非常に重要なことです。
実はこのように言葉を突き詰めていった時、ほとんどの言葉は嘘なわけです。そして、その言葉を「本当」にするのか否かは受け取り手にかかっているのです。
例えば紙幣というものを我々はお金と信じていますが、これはよく考えれば紙切れです。国や日本銀行が「これはお金です」と言うから、それを信じているだけです。
太平洋戦争後、日本の敗北によって多くの日本国債がただの紙切れになりました。現在でも、昨日まで調子の良さそうだった会社が急に倒産して、多くの株券が紙切れに変わる。それまではその紙切れが百万だとか千万だとかの価値があると信じています。ところが紙切れになった瞬間に、我に還るわけです。そして、こう言う。
「自分は騙されていた」
しかし、違うのです。騙していたのは自分自身なのです。誰かが、「この紙切れには百万円の価値がある」という言葉を発する。その言葉は当然嘘です。何故ならば紙切れは紙切れだからです。紙切れは紙切れ以外ではないのです。その嘘を受け取って、本当と解釈するのは自分自身で、この時点でその人は呪文にかかっているわけです。
ちょっと分かりづらいですね。
簡単に言えば、世界は嘘に満ちています。
しかし、それは悪いことではないのです。問題はその嘘の中身です。この世の嘘の全てが、「痛いの痛いの飛んで行け」だったら、人間は素晴らしいのです。ところが、そういう嘘ばかりではない。人を自殺に追いやってしまう嘘もあるわけです。そういう嘘を本当と信じて、自殺してしまう学生がいるのです。彼らはどんな呪文にかかっていたのか。どんな嘘を「本当」と信じてしまっていたのか。
そんな嘘を本当と信じてしまわないために、方法は一つしかありません。
学ぶことです。知ることです。
「知る」ということ以外に対応策はありません。知るための方法なら、図書館にでも散歩の中にでもある。「知ろう」とした時に、色々なことが知れるようになっています。
そうやって色々なことを知っていった時に、善い判断が出来るようになる。つまり、いい嘘だけ受け取って、悪い嘘は拒否できるようになる。その先に「自由」とか「解放」があるような気がしてなりません。
呪文について、5回にわたり書いてきました。
①呪文の存在について。
②呪文のいい効果について。
③呪文の悪い効果について。
④呪文の歴史と現在の状況について。
そして、今回は「呪文への対応策とまとめ」について書きました。
殺せるから活かせるということ。そして殺せるけど殺さない。活かすためだけにそれを使っていくということ。つまり我々は一人一人が良い呪文を使えるようになり、悪い呪文を否定しなければいけない。その積み重ねが大事なことだと思います。
最後に金子光晴さんという、僕の好きな詩人の詩を紹介します。僕はこの詩に触れるたびに、心を突き動かされるものがあります。
反対 金子光晴
僕は少年の頃
学校に反対だった。
僕は、いままた
働くことに反対だ。
僕は第一、健康とか
正義とかが大きらひなのだ。
健康で正しいほど
人間を無情にするものはない。
むろん、やまと魂は反対だ。
義理人情もへどが出る。
いつの政府にも反対であり、
文壇画壇にも尻をむけてゐる。
なにしに生まれてきたと問はるれば、
躊躇なく答へよう。反対しにと。
僕は、東にゐるときは、
西にゆきたいと思ひ、
きものは左前、靴は右左、
袴はうしろ前、馬には尻をむいて乗る。
人のいやがるものこそ、僕の好物。
とりわけ嫌ひは、気の揃ふといふことだ。
僕は信じる。反対こそ、人生で
唯一つ立派なことだと。
反対こそ、生きてることだ。
反対こそ、じぶんをつかむことだ。
(一九一七年ごろ)